常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年11月

「裸」

白川静『常用字解』
「形声。音符は果。もとの字は臝に作り、音符は𣎆。説文に“袒はだぬぐなり” とあり、“かたぬぐ”ことをいう。果は木の実をいい、人のはだかを倮といい、衣を脱いだ“はだか”を裸という」


[考察] 
臝・裸は果(木の実)と何の関係があるのか、はっきりしない。また 「人のはだか」と「衣を脱いだはだか」に違いがあるのかもはっきりしない。これは意味なのか、字形の説明なのか。
白川は臝が裸の本字だというが、間違っている。臝は果臝カラの臝で、チョウセンカラスウリのことである。裸は𧝹の異体字である。
𧝹は「𣎆(ラ)(音・イメージ記号)+衣(限定符号)」と解析する。𣎆は驘の原字で、後の騾馬(ラバ)の騾である。これの形態的特徴から「ころころと丸い」「丸みを帯びている」というイメージを表す記号となる。尻が丸いジガバチを蠃(蜾蠃)という。カラスウリも丸みを帯びているので果臝という。ミソサザイはずんぐりとして丸みを帯びた小鳥なので鸁という。衣を脱いだときに現れる丸みを帯びた肌を𧝹という。
字体は𧝹から裸に変わった。裸は「果(音・イメージ記号)+衣(限定符号)」 である。果は一般に木の実のことで、その特徴は丸いというイメージである。だから「ころころと丸い」「丸みを帯びている」というイメージを表すことができる。あるいは「くだもの」と考えれば、「表面がすべすべしている」というイメージもありうる。衣は着物と関係があることを示す限定符号。限定符号は図形的意匠を作る場面設定の働きがある。人が衣を脱ぐ場面を設定し、衣を脱いで丸みを帯びた肩などが露わに現れ出る情景が仕立てられた。この意匠によって、衣を身につけず肉体を露わにした状態、つまり「はだか」を意味する古典漢語luar(呉音・漢音でラ)を表記した。
ちなみに古典の注釈に「裸は露なり」とあり、王力は裸と露を同源の語としている(『王力古漢語字典』)。 

「翼」

白川静『常用字解』
「形声。音符は異。異を金文には異臨・休異のように、“たすける、まもる”の意味に用いている。異が翼のもとの字である。のち羽をつけて翼の字となった。翼には“つばさ”の意味がある」

[考察]
22「異」の項では「鬼の形をしたものが、両手をあげておそろしい姿をしている形。(・・・) 大きく異様な姿のものをいい、“ことなる、すぐれる”の意味となる」とある。本項では異は翼の原字だという。解釈が不統一である。
いったい「ことなる」と「たすける」と「つばさ」には何の関係があるのか。言葉という視点をもたない白川漢字学説ではこれを説明することはできないだろう。
「ことなる」と「たすける」と「つばさ」という三つの意味が一つの言葉から派生するのである。これを説明するのはコアイメージという概念である。つまり言葉の深層構造におけるイメージを捉えることである。
まず古典における翼の用例 を見る。
①原文:維鵜在梁 不濡其翼 
 訓読:維(こ)れ鵜テイ梁に在り 其の翼を濡らさず
 翻訳:ペリカンがやなの上にいるけど つばさを濡らさない[魚を捕ろうとしない]――『詩経』曹風・候人
②原文:黃耇台背 以引以翼
 訓読:黃耇コウコウ台背タイハイ 以て引き以て翼(たす)く
 翻訳:黄色い髪にフグ肌の老人 前に手を引き脇で助ける――『詩経』大雅・行葦

①は鳥のつばさの意味、②は助ける意味で使われている。これを古典漢語ではdiək(yiək)(呉音・漢音でヨク)という。これを代替する視覚記号しとして翼が考案された。
翼は「異(音・イメージ記号)+羽(限定符号)」と解析する。異については22「異」でも述べたように、両手を挙げている人を描いた図形である。恐ろしく異様な姿をした人ではない。両手を挙げているという状態に視点を置くのである。一度に両手を挙げるという行為ではなく、一つの手を挙げ、次に別の手を挙げるという連続的な行為が行われ、結果として両手が挙がっている状態である。これによって何を表そうとするのか。それは「同じもの(同じようなもの)が別にもう一つある」というイメージである。Aのほかに同じようなBが存在する場合に古典漢語ではdiəkという。Aを基準とするとBはそれとは別であるという意味が実現され、これを異という(異国の異など。「それとは別の」という意味)。今日のほかにもう一つ来るであろう日(あす)をdiəkといい、翌と書く。甲骨文字では翼の象形文字で「あす」を表した。鳥の「つばさ」も左右に同じものが並んでいる。だから「つばさ」をdiəkという。
「ことなる」「あす」「つばさ」が同じ共通のコアイメージ「同じものが別にもう一つある」を深層構造としていることが明らかである。では「たすける」はどうか。助け方にもいろいろある。輔翼・輔佐の輔・翼・佐は援や助とは違う。中心にあるものを両脇から支えるという助け方である。図示すると↗|↖の形である。この形も「同じものが別にもう一つある」というイメージである。だから翼は上の②のような「脇から支えて助ける」という意味を派生するのである。

「翌」

白川静『常用字解』
「形声。音符は立。古い字形では翼の象形のままの字があり、のち音符として立を加えた字形となる。古くは翊に作り、のち翌の形となった。翊は甲骨文字に祭日の名としてみえており、明日の祭りの名であるため、のち“おくるひ、あす”の意味に用いる」

[考察]
立(リフ)が音符とは解せない。形声も会意的に説くのが白川漢字学説であるが、立から会意的に説明できていない。字源説の体をなしていない。
また「明日の祭りの名」から「明日」の意味が出たというが、翊がなぜ明日の祭りの名なのかの説明がない。「明日」という意味が先にあってこそ、「明日の祭り」という意味に使われるのではないのか。意味展開の説明が顚倒しているとしか思えない。
古典漢語では「きのう」はどのように捉えられたか。649「昨」で述べたように「積み重なる」というイメージである。経過した時間が「きょう」の以前に重なっているからサクという。これは昔と同源である。一方、「あす」はまだ来ていない。未来の時間に対しては「きょう」と同じものがもう一つ来るであろうと予想される。「きょう」のほかに一つだけ来る日にちが「あす」である。これを古典漢語ではヨクといい、翌・翊で表記した。
翌は「羽+立」と分析する。羽も立も時間や日にちとは何の関係もない。しかしイメージと関係がある。羽は同じ方向に並ぶ鳥のはねの形。立は両足をそろえて地上に立つ人の形。羽も立もイメージ記号であり、「同じものが二つ並ぶ」というイメージを表すことができる。かくて翌は「きょう」のほかに同じ日がもう一つ来ること、つまり「あす」という時間を表している。
甲骨文字では翼だけで「あす」を表した例もある。翼はまさに「左右に二つ並ぶ」「同じものが別にもう一つある」というイメージがある。
白川漢字学説は言葉という視座がなく字形から意味を求めようとする学説である。だからかえって意味を捉え損ねる。これは白川漢字学説の限界である。

「欲」

白川静『常用字解』
「形声。音符は谷。谷は俗・容・浴の字に含まれる谷で、渓谷の谷とは異なる字である。容は祖先を祭る廟の中にᄇ(祝詞を入れる器の形)を供えて祈り、そのᄇの上にかすかに現れた神霊の姿である。その姿を見たいと思うことを欲といい、“ほっする、ねがう”の意味となる」

[考察]
字形の解釈に疑問がある。これについては1822「容」、1838「浴」でも述べたので繰り返さない。
また容に「祝詞の上に現れた神霊の姿」という意味があるだろうか。欲に「その神霊の姿を見たいと思う」という意味があるだろうか。すでに神霊が姿を現しているからには、その姿を見たいという意味が生じるだろうか。
意味とは「言葉の意味」であって字形の意味ではない。図形的解釈と意味を混同するのは白川漢字学説の全般的特徴である。 
具体的文脈における言葉の使い方が意味である。欲は古典に次の用例がある。
 原文:欲報之德 昊天罔極
 訓読:之(これ)が徳に報ゐんと欲すれど 昊天極罔(な)し
 翻訳:父母の恩恵にお返ししたいけど 天が乱れて定めない――『詩経』小雅・蓼莪
欲は何かをほしいと願う意味で使われている。これを古典漢語ではgiuk(yiuk)(呉音・漢音でヨク)という。これを代替する視覚記号しとして欲が考案された。
欲は「谷(音・イメージ記号)+欠(限定符号)」と解析する。谷については1838「浴」から再掲する。谷は「たに」であるが、実体ではなく形態や機能に重点がある。谷は形態的にはくぼんだ所であるから、「くぼみ」「穴」というイメージがある。機能的には水を受け入れる所だから、「ゆったりと受け入れる」というイメージにもなりうる。「くぼみ・穴」→「中に入れる」はスムーズにイメージが転化する。 (以上、1839「浴」の項)
谷は「くぼんだ所にゆったりと受け入れる」というイメージを示す記号。欠は大口を開けた人の形で、身体的行為や動作に関わることを示す限定符号。したがって欲は空っぽな腹や心に何かを入れて満たそうとする状況を暗示させる。この意匠によって、こちらに欠けているものを満たそうと願い求めることを意味する語を表記した。

「浴」

白川静『常用字解』
「形声。音符は谷よう。谷は渓谷の谷とは異なり、俗・容・欲の字に含まれる谷である。容は祖先を祭る廟の中にᄇ(祝詞を入れる器の形)供えて祈り、そのᄇの上にかすかに現れた神霊の姿であり、その姿を見たいと思うことを欲という。廟に祈るためにみそぎをすることを浴といい、“ゆあみ、あびる”の意味となる」

[考察]
字形の解釈にも意味の取り方にも疑問がある。これについては1822「容」で指摘した。
浴に「廟に祈るためにみそぎをする」という意味があるだろうか。そんな意味はない。意味とは「言葉の意味」であって、言葉が使われる文脈から出るものである。「廟に祈るためにみそぎをする」は字形の解釈であろう。図形的解釈と意味を混同するのは白川漢字学説の全般的特徴である。
古典における浴の文脈を調べるのが先決である。
 原文:浴乎沂。
 訓読:沂キに浴す。
 翻訳:沂の川で体を洗う――『論語』先進
浴は体のあか(汚れ)を取るために水や湯の中につかって洗うという意味で使われている。これを古典漢語ではgiuk(yiuk)(呉音・漢音でヨク)という。これを代替する視覚記号しとして浴が考案された。穢れも汚れの一種だから「みそぎをする」ことも含まれるかもしれないが、あくまでこれは比喩である。
浴の右側は谷コク(たに)であって、ヨウという音をもつ別の字ではない。ヨウという音をもつならば一つの言葉であるはずだが、こんな谷ヨウは古典にも辞書にも存在しない。
浴は「谷コク(音・イメージ記号)+水(限定符号)」を解析する。谷は「たに」であるが、実体ではなく形態や機能に重点がある。谷は形態的にはくぼんだ所であるから、「くぼみ」「穴」というイメージがある。機能的には水を受け入れる所だから、「ゆったりと受け入れる」というイメージにもなりうる。「くぼみ・穴」→「中に入れる」はスムーズにイメージが転化する。 水は水に関係があることを示す限定符号。したがって浴は水のあるくぼんだ所に体を入れる状況を暗示させる。この意匠によって、上記の意味をもつ語を表記した。
なお浴に「あびる」の訓がついている。日本語の「あびる」は「水や湯を体にかける」(『岩波古語辞典』)の意味で、上からかぶせるというイメージである。だから日光浴とか、悪口を浴びせるなどと使う。しかし漢語の浴は「中に入れる」というイメージで、浴恩(恩恵にひたる)などの用法はあるが、日光浴のような使い方(意味)はない。「あびる」は日本的展開である。 

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