常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2017年11月

「抑」

白川静『常用字解』
「会意。手と卬こうとを組み合わせた形。卬は人が向かい合う形である。上下に向かい合うときは、一人が仰向けに寝て、一人がそれを抑える形で、下からいえば仰ぐ、上からいえば抑えるという関係になる。抑は上から手で“おさえる、おす”の意味となる」

[考察] 
字形の分析を誤っている。抑の右側は仰や迎の右側とは全く違う。『説文解字』では「𠨍は按なり。反印に従ふ」とある。本当は卬ではなく印の鏡文字「𠨍」なのである。鏡文字は反対の意味・イメージを作る造形法のテクニックだが、これとは少し違う。印が「しるし」「はんこ」の意味に使われるので、これとの差別化を図るため、鏡文字とし、「上から下におさえる」という動作をはっきりさせたものである。この鏡文字に手の動作と関係があることを示す限定符号の「手」を添えたのが抑である。
古典漢語で印は・ien、抑は・iəkで、同源の語である。これらに共通するのは「上から下に押さえつける」というコアイメージである。押さえつけて印をつけること、またその印やはんこを印インという。また、対象が動けないように押さえつけて止めることを抑という。抑は印のほかに、按・遏・圧・軋・押などとも非常に近い。
抑には「そもそも」という発語の助詞の使い方もある。これは非常に古い用法で次の用例がある。
 原文:抑此皇父
 訓読:抑も此の皇父
 翻訳:いったいこの皇父という人は――『詩経』小雅・十月之交
抑には日本語で「そもそも」の訓がついている。「そもそも」とは「①物事を説き起こしたり切り出したりするときに使う。いったい。②上をおさえて下を言い起こすのにいう。それとも。ただしまた」の意味(『岩波古語辞典』)。漢語の抑には「上から下に押さえつけて止める」というコアイメージがある。話題になっていることを一旦押さえ止めて、話を転換させる用法である。日本語の「そもそも」はぴったりの訳語である。
白川は抑の字形の解剖を誤り、また言葉という視座がないから、「抑も」の解釈ができず、「語詞としての抑は“或いは”、また意・噫・懿と声が近くて感動詞に用い、“抑ああ、此の皇父”のようにいう」(『字統』)と述べている。結局仮借説に逃げた。

「曜」

白川静『常用字解』
「形声。音符は翟。釈名に“曜は燿なり” とあり、日光の“かがやく”ことをいう。いま曜日のように用いる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく、会意的に説くのが特徴である。いかし本項では翟から会意的に説明されていない。字源説の体をなしていない。
古典における曜の用例を見る。 
 原文:羔裘如膏 日出有曜
 訓読:羔裘膏の如し 日出でて曜たる有り
 翻訳:黒い皮衣はつやつやと 日の出の光に輝いた――『詩経』檜風・羔裘
曜は光が明るく輝く意味で使われている。これを古典漢語ではdiɔg(yiɔg) (呉音・漢音でエウ)という。これを代替する視覚記号しとして曜が考案された。
曜は「翟(音・イメージ記号)+日(限定符号)」と解析する。翟については1211「濯」、1789「躍」で述べた。翟は「羽+隹(とり)」を合わせて、鳥の羽が高く上がっている情景を暗示させる図形。ヤマドリをテキといい、鸐と書く。これを表すために考案された図形である。古代中国ではヤマドリの尾羽を装飾に用い、冠に挿し、高々と上げた。だから翟は「高く上がる」というイメージを示す記号となる。日は太陽と関係があることを示す限定符号。したがって曜は日の光が高く上がる状況を示している。太陽に限らず、光り輝くことを曜という。
曜の転義として、光り輝く天体を総称して七曜と称したが、近代になって西洋から一週間を七日に分ける時間区分が伝わると、一週間を七曜に当てはめ、月曜・火曜などの言い方が発生した。ただし今では星期一・星期二などと言い、曜を使わない。日本に曜日の言い方が残っている。 

「謡」
正字(旧字体)は「謠」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は䍃よう。月は肉の形。䍃は缶ほとぎの上に肉を置く形。䍃はもと䚻に作る字で、䚻は祭肉を供えて呪うように祈ることをいう。その祈りのことばを謠といい、歌うように曲節をつけて祈ることばなので、“うたう、うた”の意味になる」

[考察]
䍃は搖(揺)に含まれる字で、1825「揺」では「缶の上に肉を置く形で、肉が器外に溢れる不安定な形を示しているのであろう」とある。これでは謠が解釈できないので、䚻をもってきて「祭肉を供えて呪うように祈ること」という意味を導き、「その祈りのことば」が謠だという。しかし䚻にそんな意味があるだろうか。『説文解字』では「䚻は徒歌なり。言に従ひ、肉に従ふ」とあり、段玉裁は「䚻と謠は古今の字」としている(『説文解字注』)。
徒歌とは伴奏なしで歌うことである。口でリズムを取りながら歌う、節回しをつけて歌うということである。祈ることも節回しをつけることはあるが、䚻は「うたう」の意味であって「いのる」の意味ではない。だから謠も同じことである。
古典における謠の用例を見る。
 原文:心之憂矣 我歌且謠
 訓読:心の憂ひ 我歌ひ且つ謠はん
 翻訳:憂い悲しむ胸のうち 歌でも歌って晴らしたい――『詩経』魏風・園有桃
謠は古典の注釈にもある通り、伴奏なしで節回しをつけて歌うという意味である。これを古典漢語ではdiog(yiog)(呉音・漢音でエウ)という。これを代替する視覚記号しとして謠が考案された。
謠は「䍃(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。䍃については1825「揺」で述べているので再掲する。
䍃は「肉+缶」に分析する。肉は肉という実体に重点があるのではなく、その形状・形質から「柔かい」というイメージが取られる。缶は土器と関係があることを示す限定符号。したがって䍃は土をこねて柔らかくして土器を作る情景。『説文解字』では「瓦器なり」とある。土器や陶器を造る作業・工程から発想された図形である。古代に轆轤があったかは不明であるが、手作業で粘土をこねて造ったことは間違いない。手の動きに焦点を当てると、「細かい動きが連続的に続く」というイメージがある。手は動作に関係があることを示す限定符号。したがって搖は手をゆらゆらと連続的に動かす状況を暗示させる(以上、1825「揺」の項)。
謠でも「 細かい動きが連続的に続く」というイメージが取られる。これはゆらゆらと細かく揺れ動く状態でもある。言は言語行為と関係があることを示す限定符号。したがって謠は声を喉で調節してゆらゆらと揺れ動かす状況を暗示させる。この意匠によって、楽器に合せず、節回しをつけて声を出すこと、つまり伴奏なしで歌うことを表す。 

「擁」

白川静『常用字解』
「形声。音符は雍。雍は人の胸に隹とりを抱く形で、鷹狩りをする鷹匠が鷹を抱く形である。それに手を加えた形声の字が擁で、“だく、いだく”の意味となり、だきかかえて“まもる”の意味となる」

[考察]
白川は字形の分析を誤っている。90「応」で「䧹は人の膺むねに隹(鷹)を抱いている形で、鷹狩りを意味する字」とある。白川は雍と䧹を取り違えている。
まず古典における擁の用例を見る。
 原文:神農隱几擁杖而起。
 訓読:神農几に隠(よ)りて杖を擁して起つ。 
 翻訳:神農は肘掛けに寄りかかっていたが、杖をかかえると立ち上がった――『荘子』知北遊
擁は両手で抱きかかえる意味で使われている。これを古典漢語では・iung(呉音でユ、漢音でヨウ)という。これを代替する視覚記号として擁が考案された。
擁は邑→邕→雝→擁と展開する字である。邑は「口(囲い、領域)+卩(ひざまずく人)」を合わせて、ある領域(領地)の中に人を囲い込む状況を示した図形で、「周りを囲って中に入れる」「ある物を周囲から丸く囲い、その中に閉じ込める」というイメージを示す。具体的な意味としては人を住まわせる所(村、町)の意味が実現される。邕は「邑(イメージ記号)+川(限定符号)」を合わせて、町の周囲を水が取り巻く情景。古代中国で、周囲を池で取り巻いた建物を辟廱といったが、この廱の原字である。次に雝は「邕(音・イメージ記号)+隹(限定符号)」を合わせて、鳥を周囲から取り巻き、枠の中に閉じ込める情景。雝は字体が雍に変わったが、これは雝が崩れたもの。邕も雍も「周囲から⦿の形に取り巻いて、中に物を閉じ込める」というイメージがある。かくて雍に動作と関係があることを示す限定符号の手を添えた擁が生まれた。意味は言うまでもなく上記の用例にある通りである。

「養」

白川静『常用字解』
「形声。音符は羊。説文に“供養するなり”とあり、食物を供えて養うの意味とする」

[考察]
羊が音符で、養は「供養する」の意味だという。形声文字も会意的に説くのが白川漢字学説の特徴である。羊からの会意的な説明がない。これでは字源説の体をなしていない。
音符とは何なのか。その前に音とは何なのか。白川は音とは漢字の読み方と考えているらしい。文字の読み方とは何か。「あ」をア、Aをエー、ᄀをキヨクと読むようなものか。これは確かに文字の読み方であり、呼び方である。しかし漢字の読み方はこれらと根本的に違う。漢字は漢語の中の一つの記号素(意味のある最小単位、一音節)を代替・再現させる文字である。だから漢字の音と言っているのは実は記号素の読み方にほかならない。記号素の読み方は言ってみれば言葉そのものである。要するに音とは意味をもつ一つの言葉なのである。
では音符とは何か。形声文字の構成要素の一つが音符とされる。これはその言葉を再現させるための指標である。記号素を喚起させる機能である。これに音符という用語を使うのがそもそも間違いである。音符とは発音符号であり、一つ一つの音素に対応するのが音符である。ところが漢字は音符に分析しないで、いきなり記号素と対応させた文字である。だから漢字に音符という用語は使えない。
では何と呼ぶべきか。「音・イメージ記号」と呼ぶべきである。養は「羊(音・イメージ記号)+食(限定符号)」と解析する。羊は単なる音符ではなくイメージも同時に表す記号である。記号素の読み方を喚起して再現させると同時に記号素の意味のイメージをも暗示させる働きをもつ。
古典で養はどのように使われているかを見る。
①原文:養生喪死無憾、王道之始也。
 訓読:生を養ひ死を喪ソウして憾み無きは、王道の始めなり。
 翻訳:生者には十分体力をつけさせ、死者には十分弔いをするのが、王道政治の手始めである――『孟子』梁恵王上
②原文:今之孝者、是謂能養、至於犬馬、皆能有養。
 訓読:今の孝なる者は、是れを能く養ふと謂ふ。犬馬に至るまで、皆能く養ふこと有り。
 翻訳:現代の孝とは、親を食わせて養うことだとされている。だが、犬や馬でさえ親を養うことはやっている――『論語』為政

①は食べ物を与えて体をやしなう意味、②は世話をして生活できるようにする意味で使われている。これを古典漢語ではgiang(yiang)(呉音・漢音でヤウ)という。これを代替する視覚記号しとして養が考案された。
羊はヒツジのことであるが、実体ではなく形態・機能に重点がある。1819「羊」でも述べたが、形態的には「姿・形が美しい」というイメージ、機能(用途)的には「美味」「めでたい」というイメージがある。食は食べる行為や食べ物に関係があることを示す限定符号。したがって養はおいしい食べ物で体をやしない育てる状況を暗示させる。この意匠によって上記の①②の意味をもつgiang(yiang)を表記した。

 

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