「腕」
白川静『常用字解』
「形声。音符は宛。宛は祖先を祭る廟の中に跪いて祖先の霊を拝んでいる人の姿で、その人のふくよかな膝のふくらみを思わせる字である。体の部分を意味する月(肉)を加えた腕は、ふくよかな“うで”をいう」
[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。宛をおそらく「宀+夕+卩」に分析して、廟の中で跪いて祖先の霊を拝む形とするが、夕は何かの説明がない。だいたい宀を廟と解釈することが問題である(宀にそんな意味はない)。廟から祖先の霊を連想したのであろうが、宛を祖先の霊を拝む姿と解釈するのは臆測に過ぎる。また、その姿が跪く人のふくよかな膝を思わせるとはどういうことか。ふくよかな膝と祖先の霊を拝むことと何の関係があるのか、理解不能である。また、ふくよかな膝からなぜ「うで」の意味になるのか、これも理解不能である。「ふくよかなうでと」いうのも、意味としては変である。痩せたうではうでではないのであろうか。そもそも腕ワンに「うで」という意味があるのか。日本語の「うで」は肩から手首までの部分であろう。ところが漢字(漢語)の腕にはこの意味がないのである。中国の字書にも古典にも出てこない。白川は「うで」という訓に惑わされているようである。
古典における腕の用例を見てみよう。
原文:斷指與斷腕、利於天下相若、無擇也。
訓読:指を断つと腕を断つと、天下に利すること相若(し)けば、択ぶ無きなり。
翻訳:指を断ち切ることと手首を断ち切ることが、もし天下を利することにおいて等しいならば、選択の余地はない――『墨子』大取
指と比較されているのは「うで」ではなく、手首である。手の全体を断ち切ることと指を断ちきることは比較にならない。腕は手首の意味である。これを古典漢語では・uan(呉音・漢音でワン)という。これを代替する視覚記号として腕が考案された。
語源について『釈名』では「腕は宛なり。宛曲(曲げる)すべきを言ふなり」とある。手首の機能面を考えて、宛(曲がる)と腕の同源意識があったようである。
字源も語源に沿った造形法になっている。腕は「宛エン(音・イメージ記号)+肉(限定符号)」と解析する。宛は「夗エン(音・イメージ記号)+宀(限定符号)」と解析する。夗は「夕(よる)+卩(背を曲げてかがむ人の形)」から成り、人が夜に背を曲げて寝る情景を設定した図形。これに屋根や家と関係があることを示す限定符号の宀を添えた宛も図形的意匠としては夗と同じ。図形的意匠はそのまま意味ではない。屋根の下に体を曲げて休む情景という意匠によって、「◠の形に曲がる」というイメージを表すのである。宛の実現される意味は「体をくねらせる」「くねくねと曲がる」ということである。
宛は「◠の形に曲がる」というコアイメージを示す記号。肉は人体と関係があることを示す限定符号。したがって腕は◠の形に曲げる機能をもつ手首を暗示させる。
日本語の「うで」はもともと「肘と手首の間」で、「かいな(かひな)」は「肩から肘までの間」で、やがて「うで」と「かいな」を合わせて「うで」というようになったという(『岩波古語辞典』)。漢字(漢語)ではこれを膊ハクという。肘から上が上膊、肘から下が下膊である。下膊と掌の間(手首)が腕である。日本人は腕ワンの意味を取り違えて腕に「うで」「かいな」の訓を与えた。本来は膊の字を当てるべきだったが、今更変えられない。
白川静『常用字解』
「形声。音符は宛。宛は祖先を祭る廟の中に跪いて祖先の霊を拝んでいる人の姿で、その人のふくよかな膝のふくらみを思わせる字である。体の部分を意味する月(肉)を加えた腕は、ふくよかな“うで”をいう」
[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。宛をおそらく「宀+夕+卩」に分析して、廟の中で跪いて祖先の霊を拝む形とするが、夕は何かの説明がない。だいたい宀を廟と解釈することが問題である(宀にそんな意味はない)。廟から祖先の霊を連想したのであろうが、宛を祖先の霊を拝む姿と解釈するのは臆測に過ぎる。また、その姿が跪く人のふくよかな膝を思わせるとはどういうことか。ふくよかな膝と祖先の霊を拝むことと何の関係があるのか、理解不能である。また、ふくよかな膝からなぜ「うで」の意味になるのか、これも理解不能である。「ふくよかなうでと」いうのも、意味としては変である。痩せたうではうでではないのであろうか。そもそも腕ワンに「うで」という意味があるのか。日本語の「うで」は肩から手首までの部分であろう。ところが漢字(漢語)の腕にはこの意味がないのである。中国の字書にも古典にも出てこない。白川は「うで」という訓に惑わされているようである。
古典における腕の用例を見てみよう。
原文:斷指與斷腕、利於天下相若、無擇也。
訓読:指を断つと腕を断つと、天下に利すること相若(し)けば、択ぶ無きなり。
翻訳:指を断ち切ることと手首を断ち切ることが、もし天下を利することにおいて等しいならば、選択の余地はない――『墨子』大取
指と比較されているのは「うで」ではなく、手首である。手の全体を断ち切ることと指を断ちきることは比較にならない。腕は手首の意味である。これを古典漢語では・uan(呉音・漢音でワン)という。これを代替する視覚記号として腕が考案された。
語源について『釈名』では「腕は宛なり。宛曲(曲げる)すべきを言ふなり」とある。手首の機能面を考えて、宛(曲がる)と腕の同源意識があったようである。
字源も語源に沿った造形法になっている。腕は「宛エン(音・イメージ記号)+肉(限定符号)」と解析する。宛は「夗エン(音・イメージ記号)+宀(限定符号)」と解析する。夗は「夕(よる)+卩(背を曲げてかがむ人の形)」から成り、人が夜に背を曲げて寝る情景を設定した図形。これに屋根や家と関係があることを示す限定符号の宀を添えた宛も図形的意匠としては夗と同じ。図形的意匠はそのまま意味ではない。屋根の下に体を曲げて休む情景という意匠によって、「◠の形に曲がる」というイメージを表すのである。宛の実現される意味は「体をくねらせる」「くねくねと曲がる」ということである。
宛は「◠の形に曲がる」というコアイメージを示す記号。肉は人体と関係があることを示す限定符号。したがって腕は◠の形に曲げる機能をもつ手首を暗示させる。
日本語の「うで」はもともと「肘と手首の間」で、「かいな(かひな)」は「肩から肘までの間」で、やがて「うで」と「かいな」を合わせて「うで」というようになったという(『岩波古語辞典』)。漢字(漢語)ではこれを膊ハクという。肘から上が上膊、肘から下が下膊である。下膊と掌の間(手首)が腕である。日本人は腕ワンの意味を取り違えて腕に「うで」「かいな」の訓を与えた。本来は膊の字を当てるべきだったが、今更変えられない。