常用漢字論―白川漢字学説の検証

白川漢字学説はどんな特徴があるのかを、言語学(記号学)の観点から、常用漢字一字一字について検証する。冒頭の引用(*)は白川静『常用字解』(平凡社、2004年)から。数字は全ての親文字(見出し)の通し番号である。*引用は字形の分析と意味の取り方に関わる箇所のみである。引用が不十分で意を汲みがたい場合は原書に当たってほしい。なお本ブログは漢字学に寄与するための学術的な研究を目的とする。

2018年01月

「腕」

白川静『常用字解』
「形声。音符は宛。宛は祖先を祭る廟の中に跪いて祖先の霊を拝んでいる人の姿で、その人のふくよかな膝のふくらみを思わせる字である。体の部分を意味する月(肉)を加えた腕は、ふくよかな“うで”をいう」

[考察]
字形の解剖にも意味の取り方にも疑問がある。宛をおそらく「宀+夕+卩」に分析して、廟の中で跪いて祖先の霊を拝む形とするが、夕は何かの説明がない。だいたい宀を廟と解釈することが問題である(宀にそんな意味はない)。廟から祖先の霊を連想したのであろうが、宛を祖先の霊を拝む姿と解釈するのは臆測に過ぎる。また、その姿が跪く人のふくよかな膝を思わせるとはどういうことか。ふくよかな膝と祖先の霊を拝むことと何の関係があるのか、理解不能である。また、ふくよかな膝からなぜ「うで」の意味になるのか、これも理解不能である。「ふくよかなうでと」いうのも、意味としては変である。痩せたうではうでではないのであろうか。そもそも腕ワンに「うで」という意味があるのか。日本語の「うで」は肩から手首までの部分であろう。ところが漢字(漢語)の腕にはこの意味がないのである。中国の字書にも古典にも出てこない。白川は「うで」という訓に惑わされているようである。
古典における腕の用例を見てみよう。
 原文:斷指與斷腕、利於天下相若、無擇也。
 訓読:指を断つと腕を断つと、天下に利すること相若(し)けば、択ぶ無きなり。
 翻訳:指を断ち切ることと手首を断ち切ることが、もし天下を利することにおいて等しいならば、選択の余地はない――『墨子』大取
指と比較されているのは「うで」ではなく、手首である。手の全体を断ち切ることと指を断ちきることは比較にならない。腕は手首の意味である。これを古典漢語では・uan(呉音・漢音でワン)という。これを代替する視覚記号として腕が考案された。
語源について『釈名』では「腕は宛なり。宛曲(曲げる)すべきを言ふなり」とある。手首の機能面を考えて、宛(曲がる)と腕の同源意識があったようである。
字源も語源に沿った造形法になっている。腕は「宛エン(音・イメージ記号)+肉(限定符号)」と解析する。宛は「夗エン(音・イメージ記号)+宀(限定符号)」と解析する。夗は「夕(よる)+卩(背を曲げてかがむ人の形)」から成り、人が夜に背を曲げて寝る情景を設定した図形。これに屋根や家と関係があることを示す限定符号の宀を添えた宛も図形的意匠としては夗と同じ。図形的意匠はそのまま意味ではない。屋根の下に体を曲げて休む情景という意匠によって、「◠の形に曲がる」というイメージを表すのである。宛の実現される意味は「体をくねらせる」「くねくねと曲がる」ということである。
宛は「◠の形に曲がる」というコアイメージを示す記号。肉は人体と関係があることを示す限定符号。したがって腕は◠の形に曲げる機能をもつ手首を暗示させる。
日本語の「うで」はもともと「肘と手首の間」で、「かいな(かひな)」は「肩から肘までの間」で、やがて「うで」と「かいな」を合わせて「うで」というようになったという(『岩波古語辞典』)。漢字(漢語)ではこれを膊ハクという。肘から上が上膊、肘から下が下膊である。下膊と掌の間(手首)が腕である。日本人は腕ワンの意味を取り違えて腕に「うで」「かいな」の訓を与えた。本来は膊の字を当てるべきだったが、今更変えられない。

「湾」
正字(旧字体)は「灣」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は彎。彎は弓なりに曲がった形のものをいう。そのように曲がった海岸に海水の入りこんだところを湾といい、“いりうみ”の意味に用いる。古い字書にはみえない字で、六朝期(三世紀~六世紀)のころから使われ始めた字である」

[考察]
この字源説には彎の分析(字源)がない。なぜ彎は「弓なりに曲がった形のもの」の意味なのか。これの説明がないと灣の字源は完璧とは言えない。䜌については1527「蛮」で「神への誓いをのことばを入れた器に糸飾りをつけている形」とあり、「䜌+弓」の彎に「弓なりに曲がった形のもの」という意味は出てきそうにない。だから湾の字源は半分放棄されている。
灣は白川の言う通り六朝以後に現れる字だが、字書に「水曲」とあるように、川が曲がった所を意味する。海岸線が曲がった入り江の意味はその転義である。
灣は「彎ワン(音・イメージ記号)+水(限定符号)」と解析する。彎は『説文解字』に「弓に矢をつがえて引く」の意味としており、古典でも「(弓を)引く」の意味で使われている。彎は「䜌ラン(音・イメージ記号)+弓(ゆみ)」と解析する。䜌については1649「変」で説明したがもう一度振り返る。
䜌は「絲(いと)+言」と解剖する。言は連続した音声を区切って意味をもたせるもの、すなわち「ことば」である。言には「はっきりと区切りをつける」というイメージがある(489「言」を見よ)。このイメージは「けじめをつける」というイメージにも展開する。絲(=糸)は連続したものである。連続した糸に区切りやけじめをつけようとするが、けじめがつかずずるずると続いて絶えない状態になることが䜌の図形的意匠である。『説文解字』に注釈をした段玉裁(清朝の言語学者)は「糸を治むるに紛し易く、糸また絶えざるなり」と説明している。䜌の図形的意匠から、「もつれて乱れる」と「ずるずると続いて絶えない」という二つのイメージが読み取れる。これらは恋・蛮・湾・巒・攣などのコアイメージとなっている。(以上、1649「変」の項)
このように䜌は「もつれて乱れる」というイメージがある。もつれた状態を図示すると∞の形や◡◠の形である。直線がもつれると曲線になる。これは◡の形や◠の形のイメージでもある。したがって彎は弓に矢をつがえて、弓が◠の形に曲がるように引く情景を暗示させる。彎の実現される意味は「(弓を)引く」と「◠の形に曲がる」である。後者のイメージを用いて、灣は水辺が◠の形に曲がった地形を暗示させる。
ちなみに◠の形に曲がることを彎曲というが、彎と湾はコアイメージが同じなので、彎曲は湾曲と書いてもよい。 

「枠」

白川静『常用字解』
「国字。もとの字は篗わくで、音符は隻わく。篗はかせ糸を巻き取る道具。中心に回転する軸をつけた木の枠を作って糸を巻き取る道具である。そのような形に、方形に木を組んだものを枠という」

[考察]
漢語の篗の字源を説明しているだけで、肝心の「枠」の説明がない。読者は国字の「枠」の成り立ちこそ知りたいことであろう。白川漢字学説ではこれが説明できないのであろうか。
もっとも枠の字源については諸説紛々で定説はなさそうである。 

『岩波古語辞典』の「わく(籰)」を見ると次のような記載がある。 
「糸を巻き取る道具。軸木のついた枠(わく)を回転させながら巻き取る。〈新撰字鏡〉」
もともと「わく」は籰であったようである。つまり漢語の籰をそのまま用いたらしい。
『漢語大字典』では籰について次のように記述している。
「yuè。広韻、王縛切。古代の紡織で、糸を収めるのに用いた器具。広韻:籰は説文に曰く、糸を収むる者なりと」

現在の『説文解字』のテキストには籰(また異体字の篗)は載っていない。
篗は糸を巻き取る道具を意味する漢語であったが、これを古代日本人は「わく」と読んだ。ワクは王縛切の呉音読みである。「わく」はワクを国訓化したものと見てよいだろう。
籰は「矍カク(音・イメージ記号)+竹(限定符号)」と解析する。矍は一攫千金の攫(鷲摑みにする)にも使われている。攫・獲・郭などは同源の語で「囲いやわくの中に囲い込む」というイメージがある。その根底には「わく」のイメージがある。囲いやわくを図示すると囗の形。四角い形をした竹製の道具を暗示するのが籰という図形である。ただし普通は木製である。木の棒を四方に立てて囗の形のわくを作って、その中に回転軸を入れて、くるくる回して糸を巻き取る装置を籰という。
日本人はこれを受け入れて(文字ととともに輸入されたかどうかは不明)、糸巻きの四角い道具を「わく」と読んだ。しかし文字で書くと大変に難しい。そこで略字化を思いついた。
形声文字の籰を思い切って会意化する。木製なので偏を「木」とする。収納する働きがあるので、それを暗示させる記号がほしい。これを「卆」とする。卆は卒の略字である。卒は「おわる」という意味がある。ただし終了の終とは違い、「締めくくって一つにまとめる」という意味である。だから収納することを表せる。かくて「卆(締めくくる。まとめる。イメージ記号)+木(限定符号)」を合わせた枠が造形された。かくて道具の籰から離れて「わく」という抽象的な意味も表せるようになった。
漢字に似せたものを国字というが、擬似和製漢字というのがふさわしい。漢字のようで漢字ではない。しかし擬似だから、造形法も漢字に似せている。漢字の造形法を知っていないとこんな芸当はできない。漢字を受容した日本人は意味の取り方・使い方だけでなく、漢字の造形法も手中にしたと言えそうである。

「惑」

白川静『常用字解』
「形声。音符は或わく。或は囗(都市を取り囲んでいる城壁の形)の周辺を戈ほこで守る形で、その守る地を域という。或は有の限定された形で、“或いは”のように用いられる。或いはというように、他の可能性があることを疑う気持ちを惑といい、“まどう、うたがう、あやしむ”の意味となる」

[考察]
或は「都市の周辺をほこで守る形」だという。また或は「有の限定された形」だという。これからなぜ「或いは」という意味になるのか分からない。そもそも「有の限定された形」とは何のことか。
また惑は「或いはというように、他の可能性があることを疑う気持ち」の意味だという。「或いは」とはどういうことか。これは疑うことをいう言葉だろうか。また惑に「他の可能性があることを疑う気持ち」という意味があるのか。さまざまな疑問がある。
それは形声を会意で説くことによる疑問である。惑の字形に「或いは」が含まれているからそんな解釈が出てくる。或を「或いは」の意味とし、それからストレートに惑の意味を導くことが問題である。白川漢字学説には言葉の視座がない。言葉の深層構造への着眼がない。だから表面的に字面をなぞって意味を引き出す。これが白川漢字学説の方法であり、また限界である。
形声の説明原理は言葉の深層構造におけるイメージを探求して、語源的に意味を説明する方法である。白川漢字学説にはこの方法がないから、会意的にしか説明できなくなる。会意的に説明できない場合は字源を放棄せざるを得ない。字源を放棄された漢字が本書(『常用字解』)では意外に多い。白川漢字学説はすべての漢字を説明することは難しい。何しろ漢字の八割がたは形声文字だからである。
古典における惑の用例から惑の意味を確かめ、惑の語源・字源を考えてみよう。
 原文:四十而不惑。
 訓読:四十にして惑はず。
 翻訳:[私は]四十歳になったら迷うことがなくなった――『論語』為政
古代の日本人は惑に「まどふ」の訓をつけた。「まどふ」とは「事態を見極め得ずに混乱して、応対の仕方を定めかねる」が原義で、「㋐行く先を見定めかねて混乱する。㋑どうすればよいか決めかねて、心が乱れる」という意味に展開するという(『岩波古語辞典』)。㋐は漢語の迷、㋑は惑にほぼ相当する。藤堂明保は惑を「心が狭いわくにとらわれ、自由な判断ができないでいる。一定の対象や先入観にとらわれる」の意味としている(『学研漢和大字典』)。
上の用例の惑は「心が何かにとらわれて正しい判断ができず、どうしたらよいか迷う」という意味と解釈できる。これを古典漢語ではɦuək(呉音でワク、漢音でコク)という。これを代替する視覚記号として惑が考案された。
惑は「或(音・イメージ記号)」+心(限定符号)」と解析する。惑・域・国などは同源の語で、或にコアイメージの源泉がある。或については31「域」、594「国」で述べたのでもう一度振り返る。
或を分析すると、口+一+戈の三つの符号に分けられる。口は「くち」ではなく、場所を示す際によく用いられる符号である。 一は線引きをする符号である。口の上下にも、また左右にも一をつけた場合もある(左右の場合は縦の線)。これは周囲を区切ることを示している。或では下に一つだけの線になっているが、これは省略形と見てもよい。戈はほこの形であるが、戦争の武器に限定する必要はない。単に道具を示すための符号として使われることもある。識などの戈は印をつける道具である。これら三つの符号を組み合わせた或の図形的意匠は、道具を用いて線引きをして、一定の場所(範囲)を区切る情景ということである。これによって「ある範囲(枠)を区切る」というイメージを表すことができる。(以上、31「域」の項)
このように或は「枠を区切る」というイメージがある。言い換えると、ある空間において一定の所に線を引き、枠を作って他の空間・範囲と区別するということである。だから「狭い枠」というイメージも出てくる。全体の一部を狭い枠で区切ると、全体が見えなくなる。人間の思考においてもこんな状況がありうる。心は「こころ」(精神・心理・思考)と関係があることを示す限定符号。したがって惑は心の働きが狭い枠に区切られて、全体がとらえられず、良い判断ができなくなる状況を暗示させる。この図形的意匠によって、「正しい判断を失って心が乱れる」という意味をもつɦuəkを表記した。
疑惑の惑はこの意味である。疑にとらわれると惑にも「疑う」という意味がありそうな錯覚をする。そうすると「或いはと疑う」という解釈も出てくる。これは誤った解釈である。

「賄」

白川静『常用字解』
「形声。音符は有。有は祭肉を手に持って神に供え、すすめることをいい、侑すすめるの意味がある。説文に“財なり”とあり、自己の有する財産をいう。のち、自分の財を他人に“おくる”、その“贈り物”の意味となり、賄賂の意味に用いる」

[考察]
有は「侑める」の意味と言いながら賄は「自己の有する財産」の意味だという。なぜ「侑める」から財産の意味になるのか分からない。
形声なのに会意として解釈すると矛盾が起こることがある。白川漢字学説には形声の説明原理がなくすべて会意的に説く学説である。形声の説明原理とは言葉という視点に立ち、言葉の深層構造へ掘り下げ、語源的にコアイメージを捉えて、意味を説明する方法である。意味を導く(与える)のではなく、なぜそんな意味になるかを説明するのである。意味とは「言葉の意味」であって、字形からではなく文脈から出るものである。古典の文脈から意味を知ることができる。そんな語になぜそんな意味があるのか、なぜそんな図形で表されたかを説明するのである。前者が語源、後者が字源である。
まず古典における賄の使われた文脈を尋ね、その後で語源・字源を考える。
①原文:以爾車來 以我賄遷
 訓読:爾の車を以て来れ 我が賄ワイを以て遷(うつ)らん
 翻訳:車で迎えに来ておくれ 財産積んで移ります――『詩経』衛風・氓
②原文:薦賄則無及也。
 訓読:賄を薦むるも則ち及ぶ無きなり。
 翻訳:わいろを贈ったが間に合わなかった―― 『春秋左氏伝』宣公十四年

①は財貨・財産の意味、②は物事を頼むために贈る金品(わいろ)の意味で使われている。これを古典漢語ではhuəg(呉音でクヱ、漢音でクワイ)という。これを代替する視覚記号として賄が考案された。
賄は「有(音・イメージ記号)+貝(限定符号)」と解析する。有については1799「有」で述べたのでもう一度振る返る。
有は「又ユウ(音・イメージ記号)+肉(限定符号)」と解析する。又については1796「又」で述べている。又は右手の機能から発想された語である。物を取る際、てのひらを枠にしてその中に入れたり、腕を回して枠を作りその中に抱えたりする。腕を回して抱える動作は人をかばって助けるときにも見られる。このような機能から又という語が造語・造形された。又は「枠を作ってその中に物を囲う」というイメージ、また「中の物を周囲から囲ってかばい助ける」というイメージを示す記号となる。又は「枠を作ってその中に囲う」というイメージ、肉は肉と関係があることを示す限定符号。したがって有は肉を枠の中に囲い込む情景。ただしこれは図形的意匠であって意味ではない。意味は肉とも神とも関係がない。意味は保有・所有の有である。 (1799「有」の項)
以上のように有は「枠を作ってその中に囲う」「枠の中に囲いこむ」 というコアイメージがある。貝は財貨や貨幣と関係があることを示す限定符号。したがって賄は囲いこんだ財貨を暗示させる。手元に(家の中に)囲い込んだ財貨・財産が賄の意味である。これが上の①である。
コアイメージによって意味は派生・展開する(つまり転義する)。「枠の中に囲い込む」というコイアメージから、便宜を得るために相手の手や袖の中に囲い込ませる金品の意味に転じる。これが上の②である。 後に賄賂という熟語として使うこともある。

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