「帝」

白川静『常用字解』
「象形。祭卓の形。神に供える酒食を載せる台である。一般の祭卓の形は示であるが、天帝を祭る大きな祭卓は交叉させた脚を締めて安定させる。この大きな祭卓の帝を使用して祭るものを帝といい、“あまつかみ(天にいる神)”をいう」

[考察]
帝は天帝を祭る大きな祭卓の形だから、天帝の意味になったという。言葉という視点がないから、逆立ちした説明になっている。天帝を意味する言葉があって、それを表記するために帝という字ができたというのが、歴史的事実であろう。字形が先に生まれて、その後で意味が生まれたというのは非歴史的、非論理的である。
だいたい示と帝をともに「祭卓の形」としているが、字形は似ても似つかない。天帝を祭る祭卓だから示とは大きさや形が違うというのはこじつけである。なお加藤常賢は、示は几(つくえ)の形、帝は大きな几の形としており(『漢字の起源』)、白川説とほぼ同じ。藤堂明保は示は「神霊が降下してくる祭壇」の形、帝は「三本のたれた線を|―|印でひとまとめに締めたさま」とする(『学研漢和大字典』)。
示と帝は字形的にも意味的にも関係がないというべきであろう。
古典で帝は次のように使われている。
①原文:文王陟降 在帝左右
 訓読:文王陟降し 帝の左右に在り
 翻訳:文王[周の第一代の王]は天に上り下りし 天帝のおそばにおわします――『詩経』大雅・文王
②原文:妻帝之二女。
 訓読:帝の二女を妻(めあは)す。
 翻訳:[舜は]帝の二人の娘を妻とした――『孟子』万章上

①は天上の至高神の意味、②は地上を支配する最高権力者の意味で使われている。これを古典漢語ではteg(呉音でタイ、漢音でテイ)という。これを代替する視覚記号しとして帝が考案された。
漢字の成り立ち(字源)を説明する場合、実体に囚われると行き詰まってしまうことが多い。古来学者たちは帝が「何」であるかを究明しようとしたが、諸説紛々で行き詰まってしまった。「何」ではなく「如何(いかん、どのよう)」という視点に立つことが肝要である。実体よりも形態や機能に重点を置くのが漢字の造形原理なのである。造形法として六書(象形・指事・会意・形声・仮借・転注)の用語があるが、これに囚われると誤ることが多い。また造形原理はこれだけとは限らない。象徴的符号という操作概念も加えるべきである。これは指事の一種だが、指事などという用語にこだわる必要もない。
帝は象徴的符号という概念を導入することでうまく説明できる。帝の解釈には藤堂説が参考になる。帝は三本の線を中央で締めくくった状況を示す象徴的符号である。「何」ではなく「如何(いかん、どうのよう)」に重点を置くのである。「締めくくって一つにまとめる」というイメージを示すためにこんな図形が考案されたのである。なぜそんなイメージか。これは上の①の意味をもつtegを表記するために、その言葉のコアイメージを図形化しようとする工夫なのである。天上の至高神は宇宙の万物を統括する神である。ここに「すべてのものを締めくくる」というイメージが捉えられる。
言葉という聴覚記号を視覚記号に換える際、記号素の音声レベルから、音素・音節に分析して、その一つ一つの音素・音節を線条的に並べて言葉を表記する方法が、音素文字(例えばアルファベット)、音節文字(例えば仮名)である。一方、記号素の意味(概念)のレベルで、言葉のイメージを把握して、それを図形として表象する方法が記号素文字である。これが漢字である。漢字の造形原理とは言葉(古典漢語)の意味のイメージを図形化する方法である。
天上の至高神を意味するtegという言葉に「すべての存在を一つにまとめて締めくくる」というイメージを見出し、これを「帝」という象徴的符号によって図形化した。このような説明が歴史的であり論理的的である。
意味は①から②へ転義する。天上の至高神から地上の最高支配者の意味となる。中国では皇帝の意味となり、これを採り入れた日本では「みかど」に当てた。