「土」

白川静『常用字解』
「象形。まるめた土を台上に置く形。土をたて長の饅頭形にかためて台の上の置いた形で、これを土地の神とした。土は社(やしろ)のもとの字であり、土は古くは社の音でよばれた」

[考察]
土は社(土地の神)の意味で、それから「つち」の意味になったというが、本末転倒であろう。「つち」の意味が先にあって、その後に「つち」を祭る行為が起こったと考えないと、言語の展開として理屈に合わない。宗教や習俗の観点から見ても「つち」という言語的把握が先にないと、祭祀儀礼は成り立ち得ないだろう。
字源の説明もおかしい。「まるめた土を台上に置く形」というが、土はすでに「つち」の意味と解していることが分かる。「つち」を前提にしながら、土は土地の神だというのは、つじつまが合わない。
また土は社と同音だったというのも頷けない。音韻的復原は困難ではあるが、古典時代の文献などをもとにして復原(推定)が行われ、土の上古音(周代)はt'ag、社はdhiăgと推定されている(藤堂明保説による)。殷代の甲骨文字は音が不明で、土と社が同音かどうか分かっていない。
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。文字の形は見ようと思えば何とでも見える。形から意味を引き出すのは客観性がなく恣意的解釈に陥りがちである。意味は「言葉の意味」であって言葉の使われる文脈からしか出てこない。古典には次のような用例がある。
①原文:糞土之牆、不可杇也。
 訓読:糞土の牆は杇(ぬ)るべからず。
 翻訳:腐った土の塀は鏝で塗れない――『論語』公冶長
②原文:日居月諸 照臨下土
 訓読:日や月や 下土を照臨す
 翻訳:日の光も月の光も 大地をあまねく照らします――『詩経』邶風・日月

①は物質としての「つち」の意味、②はつちで構成されている土地や大地の意味で使われている。これを古典漢語ではt'ag(呉音でツ、漢音でト)という(ドと読むのは慣用音)。これを代替する視覚記号として土が考案された。
漢代の儒学者である董仲舒は「土の言為るは吐なり」 と述べている(『春秋繁露』五行之義篇)。土と吐は言葉として同じ(同じ語源)だというのである。「土は吐なり」は漢代の普遍的な語源意識であった。これは土の語源・字源にヒントを与える。土の語源を学問的に探求したのは藤堂明保である。藤堂は土のグループ(土・吐・社・肚)は者のグループ(者・都・諸・儲・著)、貯、庶、図、宅、石などとともに一つの単語家族を構成し、これらの語群はTAG・TAKという音形と、「充実する、一所に集まる(定着する)」という基本義をもつという(『漢字語源辞典』)。
この語源説によって土のコアイメージを考えると、「つち」の特徴はこれが集まって大地を形成するし、その中にはさまざまなものが入っているから、「中身が詰まる」というイメージがあると考えてよい。ある空間内で中身が詰まると全体がふくれたり、盛り上がったりする。この状態が限界に達すると中のものは外部に出ようとする。「中身が詰まる」→「ふくれる、盛り上がる」→「ぱっと出ていく、飛び出る」は古典漢語におけるイメージ展開のパターンである。賁という語にもこれが見られる。中身が詰まる(蕡)→ふくれる(墳)→噴き出る(噴・憤)というイメージ展開がある。土(つち)・肚(はら)・吐(はく)の関係はこれと同じである。
字源は語源の後に検討すべきである。語源を先にしないと袋小路に入ってしまう。t'agという語は「中身が詰まる」というコアイメージがあった。「中身が詰まる」は「盛り上がる」のイメージに展開する。文字は言葉の最初の段階で生まれたわけではない。言葉のイメージが展開した段階でも視覚記号が考案されることもある。土は「盛り上がる」というイメージを図形に表現したと考えても不思議はない。特に大地の形状は盛り上がったものでもある。かくて上部が盛り上がった形をした「土」という図形が考案された。これは「つちを上に盛り上げた図形」と解釈できる。図形からはそれ以上の情報は引き出せない。