「怒」

白川静『常用字解』
「形声。音符は奴。奴に努(つとめる)・弩(おお弓)など、激しく勢いが強いの意味があり、そのような心の状態を怒という」

[考察]
1364「努」では「しもべが農耕に勤めはげむ」の意味だとしている。会意的な解釈が白川漢字学説の方法であるから、努に倣えば、怒は「しもべが怒る」の意味になりそうなもの。本項では奴に「激しく勢いが強い」の意味があるといい、「しもべ」とは関係づけていない。だから会意的方法を自ら放棄していることになる。だいたい奴に「激しく勢いが強い」という意味があるだろうか。そんな意味はない。意味はあくまで「しもべ、奴隷」である。
白川漢字学説には形声の説明原理がなく、会意的方法が解釈の基本である。 しかし会意的に解けない場合が多い。そんな場合は字源を放棄せざるを得ない。本項ではあえて字源を説こうとするから矛盾が起こる。 
形声の説明原理とは言葉の視点に立ち、言葉の深層構造へ掘り下げ、語源的に意味を説明する方法である。奴は奴隷という意味しかない。これは表層的な意味、つまり具体的な文脈で実現される意味である。nagという言葉の深層(根源)にはどんなイメージがあるのか。これについては1363「奴」で述べたが、もう一度振り返る。
奴は「女(音・イメージ記号)+又(限定符号)」と解析する。女は表層の意味(文脈で実現される意味)は「おんな」であるが、niag(女)という言葉の深層にあるイメージは「柔らかい」ということである(865「女」を見よ)。このイメージは女性的特徴を表している。女性の肉体的特徴といってもよい。「柔らかい」というイメージは「粘り強い」というイメージに展開する。このイメージ展開はほかにも見られる。必ずしも漢語だけの特質ではあるまい。又は手の動作に関係があることを示す限定符号。したがって奴は粘り強く働く状況を暗示させる図形となっている。これは図形的意匠であって意味そのものではない。この意匠によって上記の意味(奴隷)をもつnagという言葉を表記するのである。白川漢字学説では言葉という視座がないので、形声文字を説明する原理がない。だからコアイメージという概念もない。奴のコアイメージを捉えれば奴の系列である努・怒・弩・駑などが一挙にスムーズに解釈できる。(1363「奴」の項)
怒は古典への出現が古い。『詩経』に出る。『詩経』では奴はないが、怒の構成要素になっているから既に奴もあったと考えてよいだろう。怒は「奴(音・イメージ記号)+心(限定符号)」と解析する。奴は奴隷の意味だが、その根源には「粘り強い」というイメージがある。おこることを意味する古典漢語に忿・憤・怫などがある。勢いよく噴き出るようなおこり方が忿・憤・怫である。怒はこれらとはイメージが違う。じわじわと心の底から強く涌いてくるような心理を怒という。
「柔らかい、しなやか」のコアイメージのある女から、「粘り強い」のアコイメージに展開する(これを表すのが奴)。柔らかい→ねちねちと粘る→強いとイメージが展開した。強く力をこめるという動作が努であり、強くこみあげる心理が怒である。