「刀」

白川静『常用字解』
「象形。かたなの形。“かたな、はもの” の意味に用いる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。刀は「かたな」の形だから、「かたな」の意味とする。
このような漢字の説明は分かりやすいが、学問的(論理的、科学的)とは言えない。だいたい字形に意味があるはずもない。意味とは「言葉の意味」であって字形(文字)にあるのではない。文字は言葉を表記する物質的手段である。
上の説明は、刀が「かたな」の意味だと予め分かっているから、逆に刀を「かたな」の形としているに過ぎない。予め分かっていない場合を想定すると、刀がかたなの形と解釈できるだろうか。白川は875「召」や1374「到」では刀を人の形としている。刀をかたなの形とする必然性はないわけだ。
刀が使われている文脈から、どんな意味で使われているかを調べるのが先決である。意味は文脈からしか出てこないのである。古典では次の用例がある。
 原文:執其鸞刀 以啓其毛
 訓読:其の鸞刀を執り 以て其の毛を啓(ひら)く
 翻訳:鈴をつけた刀を手に取り それ(いけにえ)の毛を切り開く――『詩経』小雅・信南山
刀はかたな、ナイフ、メスなどの類の刃物の意味で使われている。これを古典漢語ではtɔg(呉音・漢音でタウ)という。これを代替する視覚記号しとして刀が考案された。
日本人は「かたな」の訓を与えた。しかし日本刀とは形態が違う。刃の部分が弓状(‿の形)に反った武器である(いわゆる青竜刀のようなもの)。だから刀という図形が考案された。
 tɔgという言葉は「‿の形や⁀の形に曲がる」というコアイメージがある。言葉の深層構造を捉えると刀のグループ(到・倒・召・招・沼・照など)を一挙に説明できる。
白川漢字学説は言葉という視点がないから、コアイメージという概念もない。「刀はかたなの形」で終わってしまう。刀のグループを合理的(論理的、科学的)に説明できない。