「党」
正字(旧字体)は「黨」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は尚。尚は神を迎えて祭る窓のところにかすかに神の気配が現れることをいう。黑は煤で黒ずんだ竈の色。竈の上の窓に神を迎えることを黨といい、炊事を共にし、飲食を共にし、祭祀を共にする仲間、“ともがら、なかま”の意味となる」

[考察]
字形の解釈にも、意味の取り方にも疑問がある。「神を迎えて祭る窓のところにかすかに神の気配が現れる」とはどういうことか。尚にこんな意味があるだろうか。「竈の上の窓に神を迎える」とはどういうことか。なぜかまどの上の窓か。黨にそんな意味があるだろうか。この意味から「炊事を共にし、飲食を共にし、祭祀を共にする仲間」という意味になるだろうか。すべて疑問である。
古典では黨はそんな意味では使われていない。次の用例がある。
①原文:吾黨有直躬者。
 訓読:吾が党に直躬なる者有り。 
 翻訳:私の村に正直者の躬さんという人がいる――『論語』子路
②原文:君子不黨。
 訓読:君子は党せず。
 翻訳:君子はぐるになって仲間を作らない――『論語』述而

①は地縁・血縁の集団、あるいは五百戸を単位とする村の組織の意味、 ②はぐるになって仲間を作る意味で使われている。これを古典漢語ではtang(呉音・漢音でタウ)という。これを代替する視覚記号として黨が考案された。
黨は「尚(音・イメージ記号)+黑(限定符号)」と解析する。尚は當(当)に使われる尚のイメージと同じで、黨と當は同源の語である。尚は「平らに広がる」というイメージがあり、當では「平面を合わせるようにぶつかり合う」というイメージに展開する。當は→|の形に当たるという意味を実現する(1370「当」を見よ)。このイメージは「まっすぐ進んできたものが→|の形に当たって止まる」というイメージ、さらに「行く手を遮る」「遮り止める」というイメージにもなる。このイメージが実現されるのが擋(=攩)である。
黑は庶民の象徴である。庶民以外の人は冠をかぶるが、庶民は冠や帽子をかぶらず黒髪をさらすので、庶民のことを黎首(黎は黒い意)、黔首(黔は黒い意)という。
かくて黨の図形的意匠は、よそ者を遮って入れない庶民のグループ、排他的集団ということである。上の①が古い意味で、ここから親しい仲間同士がぐるになって集まる(不偏不党・朋党の党)、またその仲間たちという意味(徒党・悪党の党)に転じる。
近代になって政治集団にも党が使われる。排他的集団のイメージは今もこびりついている。