「同」

白川静『常用字解』
「会意。凡と口とを組み合わせた形。凡は盤の形。口はᄇで、祝詞を入れる器の形。同は筒形の酒杯の名であると思われる。周代には諸侯が集まって天子に拝謁する会同という儀礼があった。集まって同という酒杯を使って行う儀礼をともにすることから、“ともにする、おなじくする、おなじ、ともに”の意味となる」

[考察]
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。凡(盤)+口(祝詞を入れる器)→酒杯の名。酒杯を使う儀礼をともにする→ともにする・おなじという意味を導く。
盤と祝詞の器の組み合わせからなぜ酒杯の意味が出るのか。なぜ平べったい盤が杯につながるのか。祝詞は何の役割をするのか。さっぱり分からない。「思われる」というように臆測に過ぎない。
また、諸侯が同(酒杯)を使って行う儀礼があったかのように言うが、何の証拠もないことである。同は酒杯の意味なのになぜ「会同」という言葉ができるのか。「同をともにする」という意味なのか。「ともにする」というのは転義であるはず。酒杯→会同の儀礼→「ともにする」の意味展開に必然性がない。偶然の要素が強い。
白川漢字学説には言葉という視点が欠けている。同を言葉という視点から見るべきである。それには言葉の使われてる文脈から始めるべきである。古典に次の用例がある。
①原文:寔命不同
 訓読:寔(まこと)に命同jからず
 翻訳:本当に運命が同じでない――『詩経』召南・小星
②原文:我稼既同
 訓読:我が稼既に同 (あつま)る
 翻訳:収穫した作物はもう集まった―『詩経』豳風・七月
③原文:死則同穴
 訓読:死しては則ち穴を同じくせん
 翻訳:死んだら同じ墓に入りましょう――『詩経』王風・大車

①は二つがそろって等しい、AとBがぴったり合って等しいという意味、②はA・B・C・・・などが全部そろって集まる意味、③はみんなで一緒に共有する意味で使われている。これを古典漢語ではdung(呉音でヅウ、漢音でトウ)という。これを代替する視覚記号しとして同が考案された。
同を言葉の面から語源的に究明したのは藤堂明保である。藤堂は同のグループ(同・筒・桐・洞)全体を、東のグループ(東・棟・凍)、童のグループ(童・衝・撞・鐘)、重のグループ(重・動・腫・種)、用・甬のグループ(用・通・踊・涌・勇・庸)などと同じ単語家族に括り、TUNG・TUKという音形と、「突き通る」という基本義があるとした(『漢字語源辞典』)。
藤堂は同の字形については「長方形の板に穴を突き抜くことを示す会意文字。突き抜けた穴は直径が等しいから、同異の同の意を派生する」というが、これでは図形から意味が出るような説明でまずい。
TUNGに共通するのは「突き通す」というイメージで、これが重要である。工にも「突き通す」というイメージがあるが、上から下に線条的なものが突き通るというイメージである。これに対して同は立体的なものの内部が突き通っているというイメージである。立体的なものは筒形と考えてよい。これは「中」と似ている。
dung(同)は「筒形」「突き通る」がコアイメージである。円筒形の内部が満遍なく(隙間なく)突き通っているというイメージから、「でこぼこや出入りがなく、全体的に一様にそろっている」というイメージに展開する。これが上記の①の意味を実現させる。「いくつかのものが形状や性質などにおいてぴったり合っている」と言い換えてもよい。これが同の意味である。全体的に一様にそろう→そろっている(ひとしい、おなじ)と展開したのである。これから②の意味への転義もスムーズに理解できよう。全部がそろっている状態は集まることになる。会同という言葉はこのような転義を経た後で生まれたもので、最初にあった言葉ではない。
語源を検討してから初めて字源の話になる。上記の①の意味をもつdungを表記するために工夫されたのが同という図形である。同は「ᅤ+口」と分析できる。ᅤは板のような形にも見えるが、内部に空間がある形だから、筒形と考えてよい。口は「くち」であるが口は穴でもあるから、口は穴のイメージを表すことができる。筒形のイメージと穴のイメージをもつ符号を組み合わせたのが同である。同は筒形に丸い穴を突き通す状況を示す象徴的符号と解釈できる。同が「何」かという実体を追究しても解決は得られない。同によって「如何(いかん、どのよう)」を表現するかということに着眼するのがよい。漢字の造形原理は実体よりも形態・機能に重点をおく。これが分からず、実体に囚われると袋小路に入ってしまう。従来の字源説が諸説紛々であるのも実体に囚われるからである。こうにも見える、ああにも見えると、見る人によって違うから、諸説入り乱れて収拾がつかない。同の解釈も諸説紛々である。