「念」

白川静『常用字解』
「形声。音符は今。今は栓のついている蓋の形。壺形の器や瓶の、下部に栓のついている蓋である。心は心臓の形。蓋をして中のものを閉じ込めるように、心中に深くかくす、心中に深く思うことを念という」

[考察]
「栓のついている蓋」とはどういうものか。器具としては蓋と栓は別物ではないか。「今」はただ蓋の形でよいのではないか。「今」という字形が「亼」と「フ」からできているので、亼を蓋、フを栓と見ただけであろう。字形の見方があまりにも具体物に囚われすぎている。
念は蓋から解釈して、
蓋をして中のものを閉じ込めるように、心中に深くかくす、心中に深く思う」という意味だとする。この場合も蓋は余計であろう。意味はただ「心中に深く思う」だけであろう。念の用例を古典で見てみる。
 原文:愾我寤嘆 念彼京師
 訓読:愾として我寤嘆し 彼の京師を念ふ
 翻訳:はっと目覚めてため息し 都のことを一途に思う――『詩経』曹風・下泉
念は一途に思いをこめるという意味で使われている。これを古典漢語ではnem(呉音でネム、漢音でデム)という。これを代替する視覚記号しとして念が考案された。
念は「今(音・イメージ記号)+心(限定符号)」と解析する。今については601「今」で述べたが、もう一度振り返る。
甲骨文字では「亼(かぶせるもの、覆いや蓋)+ ▬(ある物)」となっている。物に蓋をかぶせて押さえ込む状況を暗示させる図形である。篆文以後は▬がフのように変形した。「上からかぶせて押さえ込む」「中に入れてふさぐ」というイメージを表す言葉がkiəmであり、これが「この瞬間、いま」という時間の創造なのである。この言葉、kiəmは「今」と図形化された。甲骨文字から現在まで変わらない文字である。今は禽獣の禽(鳥を捕まえる、また、捕らえた鳥) に「押さえ込む」「中に入れてふさぐ」のイメージがはっきり生きている。また含・吟・金・琴・念・陰などが同系列語として創作されている。これらにも「かぶさる」「ふさぐ」「中に閉じ込める」というコアイメージが脈々と流れている。(以上、601「今」の項)
このように「今」は蓋という具体物を離れて、「かぶさる」「ふさぐ」「中に閉じ込める」という抽象的なイメージを表す記号である。心は精神現象と関わることを示す限定符号。心(こころ)は抽象的なものだが、これを空間化させて「思い」がどのように心の中にあるかを表現しようとする。念は心の中に思いを閉じ込めて、ひたすら(一途に)思うという状況を表している。「おもう」という心理動詞に思・想・懐・惟・慮などがあるが、それぞれ思い方が違う。