「舞」

白川静『常用字解』
「会意。無と舛とを組み合わせた形。無は舞う人の形。衣の袖に飾りをつけ、袖をひるがえして舞う人の姿である。無が有無の無(ない)に用いられるようになって、舞うときの足の形である舛を加えて舞とし、“まう、まい、おどる” の意味に用いる」

[考察]
字源説としては妥当である。ただし白川漢字学説では言葉という視点がなく、字形から意味を導くから、理解できないことが起こる。なぜ舞う人の形である無が「まう」の意味ではなく「ない」の意味になるのか、これの説明ができない(「無」の項では仮借としている)。
無と舞は明らかに音のつながりがあるから形声である。白川漢字学説には形声の説明原理がない。だから会意として説くほかはないが、これでは言葉の深層構造の追究を失ってしまう。
舞は古典に次の用例がある。
 原文:屢舞僊僊
 訓読:屢(しばし)ば舞ふこと僊僊たり
 翻訳:しばしば軽やかに舞い踊る――『詩経』小雅・賓之初筵
明らかに踊る(ダンスをする)の意味である。これを古典漢語ではmiuag(呉音でム、漢音でブ)という。これを代替する視覚記号しとして舞が考案された。
『釈名』に「武は舞なり」という語源説がある。逆に「舞は武なり」も成り立つ。武は「無いものを求める」という
コアイメージがある(1600「武」を見よ)。王力は巫と舞を同源とする(『同源字典』)。藤堂明保は武・巫・舞・無・馬・摸などが同源の単語家族を構成し、「探り求める」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。
miuag(舞)という言葉は巫・武と関係がある。巫(シャーマン)は舞うことによって神に幸いを求める人である。また武は力によってむりやり領土や物(戦利品)を求めようとする行為である。これらの行為の前提をなすのは「無」である。こちらに無いからこそ他から求めようとする。シャーマンは踊ることによって無いものを求める。「おどる」と「ない」が結びついている。「おどる」⇄「ない」は巫という語では可逆的なイメージとなっている。舞と無の関係もこれと同じである。
以上は語源から見た。次は字源。
舞は「無(音・イメージ記号)+舛(限定符号)」と解析する。無は人が両手に羽飾りを持っている人の姿。これは静止画像であるが、動きを与えればダンスをしている動画にもなりうる。漢字は動画ではないので、静止画像でしか事態を表せないが、動画風に読むことも必要である。無は踊ることによってこちらにないものを求めようとする行為によって、「無いものを求める」というイメージを表す記号となる。舛はステップを踏む両足の形で、その動作と関係があることを示す限定符号である。したがって舞は何かを求めるためにダンスをする情景を暗示させる図形。無い物を求める(目的)とダンスをする(結果)という一連の行為の前半に視点を置けば「無い」の意味、後半に視点を置けば「舞う」の意味が実現される。