「某」

白川静『常用字解』
「会意。曰と木とを組み合わせた形。もとの字形は木の枝に曰(祝詞を入れる器のㅂの中に、祝詞のある形)を著けて神に捧げ、神意を問い謀るの意味で、謀のもとの字である。某国・某氏のように、“それがし、なにがし”の意味に用いる」

[考察]
字形の解釈に疑問がある。某の上部は甘であって曰ではない。あえて曰に替えて、白川学説の本領である「祝詞説」に合わせたとしか考えられない。木の枝に祝詞の器をつけることがなぜ「神意を問い謀る」の意味になるのか、よく分からない。祝詞は口で唱える聴覚言語である。これを器に入れるとはどういうことか。祝詞のせりふを文字に書き起こして、布や簡(竹簡・木簡)に写して、器に入れるのか。このあたりが曖昧模糊としている。なぜわざわざ器に入れるのか。口で唱えれば十分ではないのか。口や曰の「祝詞の器」説は根拠がない。
また「神意を問い謀る」の意味から、なぜ「それがし、なにがし」の意味に転じるのか、これもよく分からない。
古典における某の用例を見てみる。
①原文:子告之曰、某在斯。
 訓読:子之に告げて曰く、某ボウ斯(ここ)に在り。
 翻訳:先生は彼に告げて、「ここにいるのがなにがしだよ」と言った――『論語』衛霊公
②原文:某有負薪之憂。
 訓読:某ボウ負薪の憂ひ有り。
 翻訳:それがしは気分がすぐれません――『礼記』曲礼

①は名が分からない物事を指す言葉である。名が分かっていてもわざと言わない場合も含まれる。②は自分を指す言葉であるが、これもわざと名を名乗らない用法である。これを古典漢語ではmuəg(呉音でム・モ、漢音でボウ)という。これを代替する視覚記号しとして某が考案された。
『説文解字』に「某は酸果なり」とあるように楳(うめ)の原字である。ウメは酸味があり妊婦に好まれる。この事実から逆にウメは妊娠や出産に効用があると考えられた。ウメは古くから受胎や生殖の象徴とされている。
muəgという言葉はウメから発想された。古人の観念では、ウメは子を生むのを助ける。子は母胎から生まれる。暗い母胎から明るい世界に出るのが出産である。また、まだ形をなさないものが形をなして現れるのが生命の出現である。ここに無から有が生まれるというイメージがある。有の前提には無がある。「暗い」「見えない」「無い」は互いに連合するイメージである。muəgという言葉はウメから発想されたが、出産・生殖との関わりから、「暗い」「見えない」「無い」という表す記号となる。
ウメは梅とも書かれる。毎も某と同様、「暗い」「見えない」「無い」というイメージを表す記号となる。某のグループ(某・媒・煤・謀・楳)と毎のグループ(梅・海・悔・晦・侮)は同源の語群である。
「見えない」というイメージは「分からない」というイメージに転化する。名が分からない人や物事、時や所を指す言葉として某が用いられたのは、ウメという実体を離れてウメの象徴的機能に由来する用法である。
最後に字源について。某は「甘+木」を合わせたもの。甘は口の中に物を含む形である。これによって「うまい」「あまい」を表す。某は妊婦が好んで口に含む果実の生る木を暗示させている。