「末」

白川静『常用字解』
「指事。木の上部に肥点(● )を加えて、木の末端(こずえ)を示す。“こずえ、すえ、しも”の意味に用いる」

[考察]
字源説としては妥当である。しかし字形から意味が出たわけではない。意味を形に表したのであって、形から意味が出るのではない。「意味→形」は成り立つが、逆の「形→意味」は成り立たない。逆は真ならずである。本項のように、形の解釈が意味と一致するのは偶然に過ぎない。むしろ一致しないことのほうが多いのである。
まず言葉があり、次に文字ができた。これが歴史的真実である。意味は言葉に属し、文字に属さない。文字は言葉を何らかの方法で表記したものである。その方法に二つある。一つは記号素(言葉の最小単位)の音のレベルで表す。これが音素文字(アルファベットなど)。もう一つは記号素の概念(意味)のレベルで表す。これが記号素文字(漢字など)。漢字は意味のイメージを図形化するという方法を取る。ここで注意しなければならないのは、全面的に意味を表すことができないということである。意味は複雑であって、これを図形化するのは容易ではない。だから図形を解釈しても意味と一致するとは限らないのである。たまたま一致するのは意味が単純である場合である。象形文字の一部など物の名の場合、図形の解釈と意味が一致することがある。例えばイヌを描いた「犬」は「いぬ」という意味と一致する。
末はどうなのか。まず古典における用例から意味を確かめよう。
①原文:末大必折。
 訓読:末大なれば必ず折る。
 翻訳:木の先端が大きいと必ず折れるものだ――『春秋左氏伝』昭公十一年
②原文:明足以察秋毫之末。
 訓読:明は以て秋毫の末を察するに足る。
 翻訳:[彼の]視力は秋の獣の細い毛の先も十分見ることができる――『孟子』梁恵王上

①は木の先端(こずえ)の意味、②は空間的・時間的に終わりの方(端、すえ)の意味で使われている。これを古典漢語ではmuat(呉音でマチ・マツ、漢音でバツ)という。これを代替する視覚記号しとして末が考案された。
末は「木」の上部に「一」の印をつけた図形である。この意匠によって上記の①②の意味をもつmuatを表記した。
字源はこの通りであるが、語源も検討する必要がある。これがないとなぜ沫や抹が生まれたかの説明ができない。また次のような使い方の説明ができない。
③原文:吾末如之何也已矣。
 訓読:吾之を如何ともする末(な)きのみ。
 翻訳:私はこれをどうすることもできなかった――『論語』子罕
この末は否定詞に使われている。①②からなぜこんな用法が派生するのか。これを理解するには末という語のコアイメージを捉える必要がある。藤堂明保は末・蔑・滅などは同源で、「小さい、見えない」という基本義があるという(『漢字語源辞典』)。「小さい」というイメージから木の先端(こずえ)の意味が実現されるのである。また「小さい、細かい」というイメージは「見えない」というイメージに転化する。瑣末や粉末の末は「小さい」「細かい」「見えにくい」というイメージがある。また「見えない」というイメージを極端に抽象化すると「無い」というイメージに転化する。これが否定詞の用法を生むのである。「見えない」から「無い」という否定詞に転じる語には亡・罔・莫・蔑・勿などがある。
字源だけでなく語源を究明して初めて漢字が分かる。漢字の見方は字源で終わるものではなく、意味展開を説明しないと不十分である。