「味」

白川静『常用字解』
「形声。音符は未。未は枝が茂っている木の形で、木の枝の新芽のようなところが味がすぐれているので、滋味(うまい味わい)を味という」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。未(茂っている木の枝)+口→旨い味わいという意味を導く。
味は「旨い味わい」の意味だろうか。味は味が旨いかまずいかは関係がなく、ただ「あじ」「あじわう」の意味であろう。また、木の枝から新芽を引きだし、新芽が旨いから「旨い味わい」の意味になったというが、木の枝の新芽が旨いとは限らないだろう。意味展開に必然性がない。
また、白川説では口のつく字はたいてい祝詞を入れる器から解釈され、祈りと関係づけられる。味は白川説の本領から説明されていない。字形の解釈が不統一である。
味は古典で次のように使われている。
①原文:子在齊、聞韶三月、不知肉味。
 訓読:子、斉に在り、韶を聞くこと三月、肉の味を知らず。 
 翻訳:孔子は斉で韶[音楽の名]を三か月聞いて、肉の味を忘れた――『論語』述而
②原文:味無味。
 訓読:無味を味はふ。
 翻訳:味に無いものを味わう――『老子』第六十三章

①はあじ(名詞)、②はあじわう(動詞)に使われている。これを古典漢語ではmiuəd(呉音でミ、漢音でビ)という。これを代替する視覚記号しとして味が考案された。
『白虎通義』に「味は昧なり」とあり、古人は未・味・昧の同源意識をもっていた。これらに共通するのは「はっきり見えない」というコアイメージである。これは視覚的イメージであるが、共感覚メタファーによって味覚的イメージにも転用できる。「はっきり見えない」というイメージは「はっきり見えないものをはっきり見ようとする」というイメージに展開する。物のあじは口に入れるまでははっきりしない。口に入れることによってはっきりわかる。古代では「あじ」は気の一種と考えられた。はっきり見えない(わからない)気を口ではっきり見ようと(知ろうと)することを古典漢語ではmiuədというのである。
味は「未(音・イメージ記号)+口(限定符号)」と解析する。未については1744「未」で述べた。未は木の小さく細い枝を描いた図形であるが、実体に重点があるのではなく、形態に重点がある。木の先端の小さく細かい部分に焦点を置いて、「まだ十分伸び切らない」「はっきり見えない」というイメージを表すのである。上で述べたように「はっきり見えない」というイメージは「はっきり見えないものをはっきりさせようと求める」というイメージに展開する。口は「くち」と関係があることを示す限定符号。したがって味ははっきりしないあじの気を舌先で見分けて知ろうとすることを暗示させる。この意匠によって上記の①②の意味をもつmiuədを表記する。