「鳴」

白川静『常用字解』
「会意。口はᄇで、祝詞を入れる器の形。鳥は上を仰いで鳴いている鳳の形をした鳥。神に祈って鳥の鳴き声で占うことを示す字である。“とりがなく、なく”の意味のほかに、音が“なる、ひびく”、音を“ならす”の意味に用いる」

[考察]
常識的に考えれば「口(くち)」と「鳥(とり)」を合わせて、鳥が鳴くという意味だと誰でも分かる。古来すべての解釈がこの通りである。しかし白川はこれを俗説と見たのであろう。口を祝詞と結びつけ、祝詞を唱えて神に祈り、そして鳥の鳴き声で占いをするという意味を導く。
しかしこれは俗説を超えた珍説と言ってよいだろう。祝詞を器に入れるとはどういうことか。祝詞は口で唱える文句、いわば聴覚言語である。これをどうして器に入れるのか。聴覚記号(言葉)を視覚記号(文字)に換え、木簡や帛に書き写して(紙のような便利なものはまだない)、これを器の中に入れるのか。占いの内容は単純ではないだろう。多くの木簡や帛が必要かもしれない。こんなものをなぜ器に入れる必要があるのか。祝詞は口で唱えれば十分ではないか。数々の疑問が浮かぶ。
また鳥の鳴き声で占うとはどういうことか。これもよく分からない。
また「鳥が鳴く」という意味がなぜ鳥占いから出てくるのか。疑問だらけである。
鳴の意味は明らかだが、古典の用例を示しておく。
 原文:鷄既鳴矣 朝既盈矣
 訓読:鶏既に鳴けり 朝既に盈(み)てり
 翻訳:にわとりが鳴いたよ もう朝はいっぱい――『詩経』斉風・鶏鳴
鳴は鳥だけではなく、虫・獣などの生物がなくという意味である。メタファーとして、物体が音を出すという意味にも転じる。これを古典漢語ではmiĕng(呉音でミヤウ、漢音でメイ)という。これを代替する視覚記号しとして鳴が考案された。
字源は「口+鳥」で、鳥が鳴くことを暗示させる。字源としてはこれで十分であるが、なぜ鳥などがなくことをmiĕngというのか、つまり語源を考えないと漢字の説明は中途半端である。
古人は鳴・名・命・明の同源意識をもっていた(1757「名」を見よ)。鳥の鳴き声を自分の名を呼ぶことだという解釈は古くからある。しかしこれだけでは鳴の深層構造の理解にはならない。藤堂明保はこれらの語群には「かすかで見えない、わからぬ物をわからせる(ない物をあるようにする)」という基本義があり、「広雅・釈詁に“鳴とは名なり”とある。名と同系のコトバで、声を出してその存在を知らせること」(『漢字語源辞典』)と述べている。これが古人の見方をうまく説明している。
名がないものは存在しないに等しい。名がつけられることによって、その物は存在するようになる。同じように、鳥などの鳴くのは自分の存在をはっきりと分からせる行為だという解釈である。もちろん「鳴く」という行為を生物学的に説明したのではなく、なぜ「鳴く」ことをmiĕngというのかに対する古人の言語意識を言語学的に説明したのである。