「門」

白川静『常用字解』
「象形。両開きの扉の形。釈名に“門は捫なり”とあり、捫して開く扉のある“かど、かどぐち、いりぐち” を門といった」

[考察]
門は「捫して扉のあるかど」の意味だというが、「捫す」ことは必ずしも門の要件ではあるまい。二つの板や柱が並んで開閉できるようにしたものであろう。しかも家の中の扉とは違い、家全体(屋敷)を囲む塀や垣につけられているものが門であろう。
古典では次のように使われている。
①原文:不入我門
 訓読:我が門に入らず
 翻訳:私の家の門に入らない――『詩経』小雅・何人斯
②原文:由之瑟、奚爲於丘之門。
 訓読:由の瑟、奚為(なんす)れぞ丘の門に於いてするや。 
 翻訳:由[子路]の瑟の演奏はなぜ私[孔子]の家でやるのか――『論語』先進

①は家の出入り口の意味、②は家の意味で使われている。これを古典漢語ではmuən(呉音でモン、漢音でボン)という。これを代替する視覚記号しとして門が考案された。
門は二枚の戸(扉)を閉じた図形である。戸とも扉とも違い、家・屋敷へ出入りさせるための建造物である。もちろん家・屋敷に入るには門がなくてもよいが、門は閉じた形状によっても分かるように、家・屋敷の内部に他人が勝手に入らないようにする目的がある。
字源的には門は「門の形」で済ませるが、語源的に究明しないと、門・問・聞・捫の同源意識が分からなくなる。『説文解字』では「門は聞なり」、『広韻』に「門は問なり」、『釈名』では「門は捫なり。外に在りて人の捫摸(手探りする)所と為るなり」とある。門は問・聞・捫と同源だという古人の言語意識が現れている。白川は『釈名』の「門は捫なり」だけを引用して、門は捫すものだと見たようだが、誤解である。「AはBなり」という言い方は、AとBが語源的に同源だという説明であって、「AはBの意味」という説明ではない。『釈名』は「門は捫と同源で、見えないものを手探りして求めるという意味合い(イメージ)がある」というものである。つまり門という語をその機能面から捉えて「閉じることによって家・屋敷の内部を見えなくする、分からなくする」ということに主眼を置く解釈をしている。見えない、分からないものを手探りして知ろうとする。これが門という言葉の深層構造なのである。もちろん『釈名』は言語学的、意味論的に言葉を探求したわけではないが、現在の視点から見ると、「門は捫なり」がこのように再解釈できる。
門という言葉の深層構造には「閉じて見えない」「隠れて分からない」というイメージ(コアイメージ)がある。これを捉えると問・聞もすっきり理解することができる。聞についてはすでに1628「聞」で述べている。 
上記の②は①からの転義である。部分(家の出入り口)と全体(家)を入れ換える換喩による転義である。戸や扉にはこのような転義はない。