「厄」

白川静『常用字解』
「象形。馬車の軛くびきの形。馬の首にかけて車につなぐもので、厄くびきをかけることを扼(おさえる)という。山のけわしいところ、地勢が両方から迫るようなところを阨(けわしい)という。厄は戹(わざわい)と通じて、“わざわい”の意味に用いる」

[考察]
図形の解釈にも意味の取り方にも疑問がある。厄は軛の象形文字とするが、明らかに「厂+㔾(=卩)」に分析できる字である。金文から解釈したようだが、肝心の常用漢字の厄の字源の説明がない。
また「馬の首にかけて車につなぐもの」という意味から、なぜ災厄の意味になるのかの説明がなく、戹の仮借としている。厄以外の別方向から厄の意味を導いた。これは字源説として不十分である。
なぜそうなのか。白川漢字学説には言葉という視点がなく、言葉の深層構造へ目を向けることがない。だからコアイメージという考えもない。コアイメージを捉えてこそ言葉の意味、および意味展開が明らかになるのである。 
古典における厄の用例を見る。
①原文:孔子南適楚、厄於陳蔡之間。
 訓読:孔子南のかた楚に適(ゆ)き、陳蔡の間に厄せらる。 
 翻訳:孔子は南方の楚に行った時、陳と蔡の間で通行を遮られた――『荀子』宥坐
②原文:晏子有功、免人於厄。
 訓読:晏子功有り、人を厄より免ず。 
 翻訳:晏嬰は人を災厄から救う功績があった――『晏子春秋』内篇・雑上

①は進行を妨げられて行き詰まる意味、②はわざわいの意味で使われている。これを古典漢語では・ĕk(呉音でヤク、漢音でアク)という。これを代替する視覚記号しとして厄が考案された。
①のコアイメージは「押さえつけて動けないようにする」ということである。このイメージから、順調な進行を妨げて行き詰まらせるものという意味に展開する。これが②の「わざわい」の意味である。馬の軛(くびき)もこのイメージからの展開である。馬車を引かせるために馬の首を押さえつけて固定し、自由に動けなくするものが軛である。
字源を見る。 厄は「厂+㔾」に分析できる。厂は厓などに含まれ、⎾形のがけを示す記号。㔾は卩と同じで跪いた人の形。したがって厄は立ちはだかる崖の前で進めず膝をついている情景である。あるいは厄は危の下半部だから、人が崖から落ちてうずくまっている情景とも解釈できる。このような情景を設定した図形的意匠によって、「(障害・妨害などの圧力に)押さえつけられて動けなくなる」「行き詰まってにっちもさっちも行かない」というイメージを表す記号とすることができる。ここから上の①②の意味が実現されるのである。