「訳」
正字(旧字体)は「譯」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は睪えき。睪は獣の屍体の形で、その屍体をばらばらに解きほぐすことを釈という。説文に“四夷の言を伝訳する者なり”とあって、異なった言語を自国語に言い直す人をいう。ある言語を一つ一つに解体し、別の言語に改めること、他国語の意味を伝えることをいう」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。睪(獣の屍体)と言を合わせて、「ある言語を一つ一つに解体し、別の言語に改めること、他国語の意味を伝えること」という意味を導く。
意味はこの通りであろうが、「獣の屍体を解きほぐす」ことから「言語を解体する」へと転換させるのがやや無理。解体しては消えてしまう。再建することが必要だろう。翻訳とは「解体する」 ことに重点があるわけではあるまい。組み替えることに重点があるはずである。
形声の説明原理とは言葉という視点に立ち、言葉の深層構造へ掘り下げ、コアイメージを捉えることによって、言葉の意味を明確に説明する方法である。字形から意味を読み取る方法ではない。意味とは「言葉の意味」であって字形から出てくるものではない。言葉の使われる文脈から出るものである。 
古典における訳の用例を見る。
 原文:凡冠帶之國、舟車之所通、不用象譯狄鞮。
 訓読:凡冠帯の国、舟車の通ずる所、象・訳・狄鞮テキテイを用ゐず。
 翻訳:中華の国は交通の便がよいから通訳の必要がない――『呂氏春秋』慎勢
譯は通訳、翻訳、つまりある国(民族)の言語を別の国(民族)の言語に移し換えて伝えることである。これを古典漢語ではdiak(yiak)(呉音でヤク、漢音でエキ)という。これを代替する視覚記号しとして譯が考案された。
中国の四方に多くの異民族が住んでいて、外交などのため意思を通じる必要があった。外国語を中華の言語(漢語)に直すための官吏(通訳官)は地域ごとに呼び名が違っていた。『礼記』王制に「東方を寄と曰ひ、南方を象と曰ひ、西方を狄鞮と曰ひ、北方を譯と曰ふ」とある。譯はそれらの総称でもある。
遠い所にある異民族国家の場合や、少数民族が非常に多い所では、一対一に通訳することが困難なことがある。Aの言語をBに移し、BをCに移し、Cを漢語に移すということがしばしば起こる。『史記』大宛列伝では実に九訳(九つの言語を通して翻訳する)という事例が見られる。
譯は名詞にも動詞にも使われた。上記の譯は通訳官の意味である。なぜ譯というのか。語源・字源の両面から究明する。まず字源から始める。譯は「睪(音・イメージ記号)+言(限定符号)」と解析する。睪についてはすでに66「駅」で述べている。振り返って見よう。
睪を解剖してみる。「罒+幸」に分析する。罒は目と同じ。幸は手枷(手錠)の形である。「目+幸」は極めて舌足らず(情報不足)な図形で何とでも解釈できるが、幸を犯人や容疑者の象徴と見ると、犯人や容疑者を目視する場面と想定することができる。犯人を特定するために容疑者を面通しする場面を設定したのが睪と解釈できる。『説文解字』に「目視なり。吏をして目をもって罪人を捕らへしむるなり」とある。面通しする場面では何人かの容疑者をのぞき見して違うかどうかを判定する。このような情景を図示するとA-B-C-というぐあいに次々につながっていく。数珠つなぎのイメージになる。したがって「数珠つなぎ(ー・ー・ー・の形)につながる」というイメージを睪で表しうる。かくてー・ー・ー・の形に点々とつながる宿場、その宿場を乗り継ぐ馬という意匠をもった驛が成立する。(以上、66「駅」の項)
睪は「数珠つなぎ(ー・ー・ー・の形)につながる」というイメージを表す記号で、驛・澤・擇・釋・繹などの語群がすべてこのコアイメージをもつ。譯も同じである。言は言葉に関係があることを示す限定符号。したがって譯はAの言語をBに、またA→B→C→Dというぐあいに次々と置き換えてつないでいく状況を示す図形である。この意匠によって上記にある意味をもつdiak(yiak)という語を表記する。
駅(宿場、現代ではステーション)はA→B→C→Dとつながっていく。駅伝(リレー式につなげる徒競走)はまさにこのイメージである。訳もA→B→C→Dと言語をつないでいく。多言語間だけではなく二言語間でも訳という。