「又」

白川静『常用字解』
「象形。右手の形。指を出している右手の形で、右のもとの字である。のち“また、ふたたび”の意味に用い、また“たすける”の意味に用いた」

[考察]
白川漢字学説には言葉という視座がない。言葉を無視し、字形から意味を求めようとする。又は右手の形で、「また」「たすける」の意味に用いるというが、その理由を説明していない。言葉の深層構造へ目がいかないから、言葉の意味が全く見えてこない。
意味とは「言葉の意味」であって字形にあるのではない。意味は言葉の使われる文脈からしか出てこない。又の使われる文脈を見る必要がある。
①原文:既破我斧 又缺我斨
 訓読:既に我が斧を破り 又我が斨ショウを欠く
 翻訳:我が軍は斧がこわれた上に ちょうなも欠けてしまった――『詩経』豳風・破斧
②原文:緇衣之宜兮 敝予又改造兮
 訓読:緇衣の宜しき 敝(やぶ)れなば予又改め造らん
 翻訳:黒い衣がよく似合う 破れたらまた作りましょう――『詩経』鄭風・緇衣

①はその上に更に加えてという意味、②は再びの意味で使われている。これを古典漢語ではɦiuəg(呉音でウ、漢音でイウ)という。これを代替する視覚記号しとして又が考案された。
又は白川の言う通り右手の形である。すでに甲骨文字にあり、「また」の意味のほかにみぎ(右)、ある(有)、たすける(祐・佑)、すすめる(侑)の意味で使われている。「また」の意味以外はすべて後に括弧の中の字に変わった。「また」の意味だけが古典で使われている。
なぜ「また」の意味があるのか。これを理解するには言葉の深層構造へ目を向ける必要がある。
又は右手の機能から発想された語である。古代中国は右手優先の社会である。右はたいてい利き手でもある。右手の機能とは物をつかんだり取ったりする際の働きである。右手で囲うような形で物を取る。あるいは腕を回して物を抱えたりする。このような右手の機能に着目して「枠を作ってその中に物を囲う」とか「中の物を周囲からかばうようにして助ける」というイメージを表し、これをɦiuəgと呼ぶのである。
枠を作ってその中に物を囲うと、中の物をかぶせた形になる。 Aの上にBをかぶせるというイメージが生まれる。かくてAという事態があって、その上にBという事態がかぶさって加わるという意味が実現される。これが上の①の意味である。Aの上に別のBが加わって(その上に更に加えて)という意味である。