「右」

白川静『常用字解』
「会意。又と口とを組み合わせた形。又は右手の形。口はㅂで、祝詞を入れる器の形。右手にㅂを持って祈り、神のある所を尋ね、神の佑助を求めることを右といい、“たすける”の意味となる」

[考察]
又と右は同音であるから、明らかに音のつながりがある。だから形声のはず。白川漢字学説には形声の説明原理がなく、形声も会意的に説くのが特徴である。本項では最初から会意としている。
又(右手)+口(祝詞を入れる器)→神の佑助を求めるという意味を導くが、なぜ「助けを求める」ではなく「たすける」の意味になるのか、理解しがたい。「助けを求める」の主語は人間、「たすける」の主語は神であろう。人間が神の助けを求めるから、神が助けるという意味になるのであろうか。
また、神の佑助を求めるのになぜ祝詞を入れる器が必要なのかも分からない。祝詞とは口で唱える言葉だから聴覚言語である。これを器に入れるとはどういうことか。視覚言語の文字に写しかえるのか。それには書写材料が要る。古代の書写材料は簡(竹簡・木簡)か帛(絹)である。祈りの文句をこれに書いて器に入れるのか。祈りの文句は単純ではあるまい。たくさんの簡や帛が必要だろう。こんなものをなぜわざわざ器に入れるのか。常識では考えられない。白川のㅂ説は空想の産物としか思えない。
また、右はなぜ「みぎ」の意味があるのか。白川は「又が右のもとの字であり、右も“みぎ”の意味に用いる」という。そうすると又の代用ということになる。「みぎ」は祝詞説では説明がつかない。
白川漢字学説には言葉という視点がないから、意味の関連性や展開が全く見えてこない。又には「また」「みぎ」「たすける」という意味があるというが、これらの関連がさっぱり分からない。
これらの意味を理解するには、言葉という視点に立って、言葉の深層構造へ掘り下げ、コアイメージを捉える必要がある。コアイメージを捉えることによって「また」「みぎ」「たすける」を統一的に説明できるのである。
まず古典における右の用例を見る。
①原文:淇水在右
 訓読:淇水は右に在り
 翻訳:淇水は右側にある――『詩経』衛風・竹竿
②原文:保右命之
 訓読:保右して之に命ず
 翻訳:天は助け守って彼に命を下す――『詩経』大雅・仮楽

①はみぎの方向(みぎがわ)の意味、②はかばい助ける意味で使われている。これを古典漢語ではɦiuəg(呉音でウ、漢音でイウ)という。これを代替する視覚記号しとして右が考案された。
右は「又(音・イメージ記号)+口(物を示すイメージ補助記号)」と解析する。又については1796「又」で述べた。又は右手から発想された語で、「枠を作ってその中に物を囲う」というイメージ、また「中の物を周囲から囲ってかばう」というイメージを表す記号である。前者から「また」(その上に更に加えて)の意味、後者から「とも(友)」の意味が実現される。上記の①と②の意味もこのコアイメージから生まれる。
又は腕を回して物を抱える(囲い込む)という右手の機能から発想された。「中の物を周囲から囲ってかばう」というのが右のコアイメージである。このイメージを図形に表現したのが「又+口(物を示す符号)」を合わせた右で、右手で物を囲う情景を想定した図形となっている。
ただし右は右手という具体物を表すのではない。人間が正面を向くとき、右手の方向が「みぎがわ」、左手の方向が「ひだりがわ」である。右手、左手という具体物を離れて、左右の方角を表す言葉に展開するのである。上の①は方角としての「みぎ」の意味である。 
一方、「中の物を周囲から囲ってかばう」というイメージから、上の②の意味が実現される。後に祐・佑と書かれるが、これらは「神の助け」や「人の助け」に限定した用法である。右は周囲から中の物を囲って(抱えて、守って)かばい助ける」という意味である。