「羅」
白川静『常用字解』
「会意。网もうと維とを組み合わせた形。网は網の形。甲骨文字の字形は、隹とりに网あみをかける象形的な字である、のち、さらに糸を加えて、隹に網をかけて維つなぎとめる形が羅で、“あみ、あみする”の意味となる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。网(あみ)+隹+糸→鳥に網をかけて維ぎとめる→あみという意味を導く。
鳥に網をかけることと、鳥を糸でつなぐことが同時に羅にこめられていると見たのであろう。なぜ羅は「つなぎとめる」の意味にならないで、「あみ」の意味になるのか、意味展開に必然性があるのか、疑問である。
字形から意味を導くのは正しいだろうか。だいたい字形に意味があるのか。白川漢字学説では字形に意味があるとして形から意味を求める方法を「字形学」と称し、文字学の根本原理としている。
ここには言葉という視点が全く欠けている。言語学において意味とは「言葉の意味」であって、それ以外にはありようがない。それ以外のものに意味を求めるのは比喩、見立てに過ぎない。比喩すら言葉なしでは理解しようがない。言葉の意味があってこそ言語外のことも理解できる。
言葉を表記する道具が文字である。漢字も漢語という言葉を表記する手段である。道具や手段に意味があるのではなく、それの拠って立つ言葉に意味があるのである。意味は漢字にあるのではなく漢語にあり、その漢字の意味を暗示させる図形が漢字である。漢字だけをいくら分析しても意味が正確に出てくるとは限らない。意味の幅やずれが大きく、A(字形) =B(意味)にはならない。A≒Bにしかならない。羅が「あみ」なのか「つなぎとめる」なのかは字形からは分からない。
では何によって意味が分かるのか。それは言葉が使われる具体的文脈である。文脈がなければ意味は知りようがない。文脈がなければ意味はないとも言える。あったとしてもそれは仮定・架空の意味である。
古典における羅の文脈を見てみよう。 
①原文:有兔爰爰 雉離于羅
 訓読:兎有りて爰爰エンエンたり 雉は羅(あみ)に離(かか)る
 翻訳:ウサギはおっちら野道を行くが キジはかすみ網にひっかかったよ――『詩経』王風・兎爰
②原文:鴛鴦于飛 畢之羅之
 訓読:鴛鴦于(ここ)に飛ぶ 之を畢(あみ)にし之を羅にせん
 翻訳:オシドリが飛んでいるよ あみで捕まえよう――『詩経』小雅・鴛鴦

①は鳥獣を捕らえる網の意味、②は網にひっかけて捕まえる意味で使われている。これを古典漢語ではlar(呉音・漢音でラ)という。これを代替する視覚記号しとして羅が考案された。
羅は「隹(とり)+糸(いと)+网(あみ。限定符号)」と解析する。上記の①の意味をもつ言葉を表記するための図形である。鳥獣を捕らえるという目的があるから隹の記号が用いられ、材料の面から糸の記号が使われている。これらは具体的な物体であるが、そのままイメージ記号として利用され、これらに限定符号の网を添えて羅が組み立てられた。限定符号は意味領域を指示するのが一つの働きである。このような図形的意匠を仕立てることによって、鳥獣を捕らえる網という意味をもつ言葉の表記とした。