「力」

白川静『常用字解』
「象形。すきの形。説文に人の筋(肉のなかのすじ)の形とするが、耒すきの形である。耒は力(すき)と又とを組み合わせた形で、力を手(又)に持つ形。耒を使って田畑を耕すことは多くの労力を要することであったから、“ちから、はたらき、つとめる、はげむ”の意味に用いる」

[考察]
字形の解釈にも意味の取り方にも疑問がある。力は「すき」の形だというが、なぜ「すき」の意味にならないのか。「力+又」の耒が「すき」の意味だという。力と耒は音が違う。なぜ別の語になったのか。また、「耒を使って田畑を耕すのは多くの労力を要するから」、力は「ちから」の意味に用いるというが、「ちから」という概念が先にあるから言えることであり、「ちから」という言葉がないのに、耒は労力を要するから「すき」から「ちから」の意味が出てくるというのは、甚だ矛盾ではなかろうか。
「ちから」という概念が筋肉の働きから生まれたのは英語のmuscle(筋肉、ちから)を見ても想像ができる。日本語の「ちから」はチ(血)+カラ(血筋)で、「人や生物の筋肉によって何かをなしとげる働きのもととなるもの」が原義という(『岩波古語辞典』)。『説文解字』にも「力は筋なり」「筋は肉の力なり」とあるように、古人は「ちから」の源泉が筋肉であることを理解していた。
力の字源は「腕に力を入れている象形」(加藤常賢『漢字の起源』)、「手の筋肉をすじばらせてがんばるさまを描いた象形文字」(『学研漢和大字典』)としてよい。農具の鋤の形としたのは中国の文字学者徐中舒の説だが、わざわざ異を唱えた説で、この説を用いて力のつく漢字を「すき」から解釈したのが白川漢字学説である。しかしそれぞれの項目で指摘したように甚だ無理な解釈をしている。例えば努の項で「努は字形からいえば、しもべが農耕にはげむことをいう」などと解釈している。努はしもべ(奴隷)とも農耕とも関係がない。