「路」

白川静『常用字解』
「形声。音符は各。各はᄇ(祝詞を入れる器の形)を供えて祈り、神の降下を求めるのに応えて、天から神が降ることをいう。それに足を加えた路は、神の降る“みち”をいう」

[考察]
白川漢字学説では口を「神への祈りの文である祝詞を入れる器」と解釈するので、各の解釈に神が出てくる。口を「祝詞を入れる器」とするのは根拠に乏しい(実証不能)。だいたい祝詞とは祈りの言葉で、口頭言語(聴覚言語)である。これを器に入れるとはどういうことか。聴覚記号を目に見えるようにするには、視覚記号である文字に写す必要がある。そのためには書写材料が要る。紙は後漢以後であるから、上代では布か札(竹簡・木簡)であろう。これに祈りの文言を写すには、予め文言の内容を定める必要がある。何のために何を祈るかによって、文言の量は決まってくるが、内容によっては量がかさばることも当然あるだろう。大量の布や札が必要とされる。これを入れる器とはどんなものであろうか。想像を超える。そもそも神に祈るには口頭言語で十分であるのになぜ視覚言語にして器に入れなければならないのか。必然的な理由も見出せない。ということで口の祝詞説は論理破綻せざるを得ないだろう。
上の字源説には夂の説明がないが、176「各」では「夂は前に向かう足あとの形を逆さまにした形せ、上から降りて来ることを示している」とある。「夂+口」で「神が天から降る」という意味を導いたが、なぜそんな意味になるのか。だいたい各にそんな意味があるのか。字形の解釈も意味の取り方も疑問である。さらに路を「神の(天から)降るみち」という意味とするが、そんな道が存在するのであろうか。これも甚だ疑問である。
字形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法であるが、恣意的な解釈に陥る傾向がある。その結果あり得ない意味が生み出されるのである。意味とは「言葉の意味」であって字形から引き出されるものではなく、言葉の使われる文脈から出てくるものである。具体的な文脈における言葉の使い方が意味である。
古典における路の使い方を見る。
 原文:遵大路兮 摻執子之手兮
 訓読:大路に遵ひ 子の手を摻執サンシツす
 翻訳:大通りに沿って行き あなたの手をしっかとつかむ――『詩経』鄭風・ 遵大路
路は通りみちの意味で使われている。これを古典漢語ではglag(推定。後にlo。呉音でル、漢音でロ)という。これを代替する視覚記号として路が考案された。
路は「各(音・イメージ記号)+足(限定符号)」と解析する。各については176「各」で述べているので、再掲する。
各は甲骨文字や金文では「いたる」の意味で使われ、古典では格と書かれる。「いたる」とは歩いてやって来る足がある地点で止まることである。図示すると→|の形である。これは「(何かに)つかえて止まる」というイメージである。足がつかえてそれ以上は進めず、そこでストップする。この情景を図形に表現したのが各である。夂は下向きの足の形。降りるときの足(例えば降の右上)、坐るときの足(例えば処)などに使われる。口は「くち」を表す「口」とは違い、石に含まれる「口」や場所を示す「口」(韋や或など)と同じである。「夂」と「口」を合わせた「各」は、歩いてやって来る足が固いものにぶつかって、そこでストップする情景を設定した図形と言えよう。この意匠によって、「(ある地点に)いたる」の意味をもつ古典漢語klakという語を表記する。上代ではkl~という複声母があったと推定されている。これは各のグループのうち格・客などがk~の音、路・絡などがl~の音であることから推測された。各という語のコアイメージは→|の形、「(固いものに)つかえて止まる」というイメージである。イメージは転化する。→|は終点に焦点を置いたものだが、起点を予想すると、|→|のイメージに転化する。これは「起点と終点を結ぶ」「A点とB点をつなぐ」「AとBが連なる」というイメージである。また経過する点を予想すると、途中の点で止まり、また次の点に進んで止まるというイメージが生まれる。図示すると→|→|の形、あるいは▯-▯-▯・・・の形である。これは「A・B・C・・・と点々と連なる、並ぶ」というイメージである。以上のように各は「(固いものに)つかえて止まる」というイメージから、「AーBの形に連なる」、また「A・B・C・・・の形に並ぶ」というイメージに展開する。 (176「各」の項)
このように各は「AーBの形に連なる」というイメージを示す記号となる。足は足や歩行と関係があることを示す限定符号。したがって路はA点からB点につなぐみちを暗示させる。この意匠によって上記の意味のglagを表記する。
路は神とは何の関係もない。天から神がくだる道ではない。