「愛」

白川静『常用字解』
「会意。a(アイ)と心とを組み合わせた形。後ろを顧みてたたずむ人の形であるaの胸のあたりに、心臓の形である心を加えた形。立ち去ろうとして後ろに心がひかれる人の姿であり、その心情を愛といい、‘いつくしむ’の意味となる。国語では‘かなし’とよみ、後ろの人に心を残す、心にかかることをいう」
a=[旡+夊]

[考察]
まず会意とあるのに注目したい。aがアイの音とすれば形声のはずである。ただしaという字は存在しない。㤅(アイの音)は存在する。字形の解剖を間違えている。
一般に漢字の字源(成り立ち)をいわゆる六書(象形、指事、形声、会意、転注、仮借)で説くならわしがある。会意とはすでにできている二つの文字を組み合わせる手法。AとBを合わせて、Cという別の文字を作るが、CはAとBの意味を合わせたものとされる(会意とは「意を会す」こと)。だから白川は上記のように、a(後ろを顧みる人)と心を合わせた愛は、立ち去ろうとして後ろに心がひかれる(その心情)の意味であると解した。
会意という操作概念はA+Bと単純に言えるだろうか。例えば明はどうか。日と月の組み合わせだから、日と月の意味とか、月日(時間)という意味とは言えない(そんな意味に使われないから)。実体である太陽や月とは何の関係もない。「あかるさ」という抽象概念を暗示させるために、日と月を表す符号(文字)をドッキングさせたに過ぎない。実体を超えて、象徴的に意味を暗示させるのが会意の手法である。
白川漢字学説はAとBを平面的に並べて、AとB を含めた意味を導くのが特徴である。だからたいてい会意になる。会意で説明がつかないときに形声とするが、形声という手法の説明原理を持たないのが白川漢字学説のもう一つの特徴である。

愛に「立ち去ろうとして後ろに心がひかれる」「後ろの人に心を残す」というような意味はない。これは図形の解釈と意味を混同している。古典では次のように使われている。
 原文 心乎愛矣 遐不謂矣
 訓読 心に愛す 遐(なん)ぞ謂はざらんや
 翻訳 切なく思う胸のうち 告げないではいられません――『詩経』小雅・隰桑

明らかに恋愛の愛である。切ない思いで胸が詰まる(一杯になる)ことが愛の意味である。
正しい解析は「㤅+夊」である(『説文解字』以来このように分析される)。しかし㤅も分析可能である。「旡+心」と分析できる。旡が根源のイメージを提供する記号である。漢字は平面的な組み合わせと見るべきではなく、立体的、重層的な組み立てと見ないといけない。根底に旡という記号があり、旡→㤅→愛と重層的に構築されるのである。これら各層が根源のイメージで貫かれる。どんなイメージか。
旡は既を構成する記号である。既は食べ物の前にひざまずいて後ろにのけぞる人の姿である。食べ物を腹いっぱい食べ尽くしている情景が既であり、この図形の意匠(デザイン、図案)によって、「食べ尽くす、尽きる」の意味と「もうすでに」の意味をもつ古典漢語を表記する。前者は皆既食の既、後者は既婚の既である。これらは具体的文脈で実現される意味だが、旡と既の根底にあるのは「いっぱになる」「中がいっぱいに詰まる、ふさがる」
というイメージである。
恋愛の愛もまさにこの「いっぱい詰まる、ふさがる」というのがコアイメージである。切ない思いで胸がふさがるというのが愛の意味である。この意味はすでに「旡(音・イメージ記号)+心(限定符号)」を合わせた㤅(アイ)で達成されていたが、㤅は用いられず、もう少し複雑な図形が考案された。それが「㤅(音・イメージ記号)+夊(限定符号)」を合わせた愛である。なぜ夊という限定符号をつけたのか。

その前に限定符号とはどういうものか。限定符号には三種類ある。一つはカテゴリーの役目をになう。例えば猫は動物(けもの)というカテゴリーに属するので「犬」(けもの)を限定符号とする。もう一つは図形がいかなる場面と関わるかを指定する働きである。例えば狩は犬が獲物を追いかける場面を設定するので「犬」(いぬ)を限定符号とする。三つ目は比喩的限定符号である。狂は犬がくるうのではなく、「暴れ回る犬」は比喩である。無茶な振る舞いをすることを表すために「犬」を限定符号とする。

夊は二番目の限定符号で、足の動作に関わる場面を作り出すための限定符号である。夊は足や夂とは違い、ひきずる足である。すたすたとは歩けない足、重そうにとどまりがちな足である。こんな足の動作で「切なくて足もとまりそうで歩けない」情景を設定したのが愛である。進行が止まるという意味ではなく、歩けないほど切ない思いを表したのである。ここには比喩がある。身体でもって心理を表すのは一種の換喩的なレトリックであろう。