「安」

白川静『常用字解』
「会意。宀は祖先の霊を祭っている廟の屋根の形。安は廟の中に女の人が座っている形で、嫁いできた新婦が廟にお参りしていることを示している。新妻が廟にお参りし、夫の家の祖先の霊を祭り、この家の氏族霊を受けて、夫の家の人になるための儀式を行っているのである。これによって新妻ははじめて夫の家の人として認められ、夫の家の祖先の霊に守られて、やすらかで平穏な生活ができるのである」

[考察]
形から意味を導く白川漢字学説が明確に述べられている解字である。
字の形は「宀+女」という極めて舌足らずな図形である。情報不足だが、解釈しようと思えば何とでも解釈できる。屋根の下に女がいる形と解釈するのは誰にでもできる。これがなぜ「やすらか」という意味と結びつくかを説明するために、白川は、新妻が廟にお参りする→夫の家の氏族霊を受けてその家の人と認められる→祖先の霊に守られて平穏な生活ができる→やすらかと意味展開をさせる。わずかな情報から壮大な(?)物語を作り出した。
確証のない古代習俗を想定して漢字を解釈するのか、あるいは逆に、漢字の解釈をこんな習俗の証拠にしようとするのか、どちらとも言えないが、空想の産物としか思えない。
字源が難解であったり、あまりに単純で舌足らずであったりする場合は、語源を先に検討する必要がある。その前に具体的文脈における使い方を見なければならない。具体的文脈における使い方こそ意味(語の意味)である。

安は次のような使用例がある。
①原文:喪亂既平 既安且寧
 訓読:喪乱既に平らぎ 既に安らかにして且つ寧し
 翻訳:戦乱は既に平定され 世はやすらかに落ち着いた――『詩経』小雅・常棣

②原文:將安將樂 女轉棄予
 訓読:将に安んじ将に楽しむとき 女(なんじ)転じて予を棄つ
 翻訳:心やすらぐ今になって あなたはかえって私を棄てた――『詩経』小雅・谷風

混乱などの無秩序の状態、あるいは動揺して不安定な状態がじっと定まり落ち着くことが安の使い方(意味)であることは明白である。社会のレベルから個人の生活や心理のレベルまで安を使うことができる。安の語感には宗教的、神秘的なにおいは全くない。神(祖先の霊魂)によって安らぎを得るのではなく、自らの力で自然に平安の状態になることである。じっと落ち着いて動かない状態が安だから、「たいら」「しずか」「おだやか」などを意味する語と近い。だから平安、安静、平穏などと結びつく。

古典の注釈に「安は靜なり」「安は定なり」「安は止なり」などの訓がある。これは同源関係を述べたのではなく、意味のイメージを捉えたもの。安は一所にじっと定まり止まるというイメージである。その前提には動きがある。動いて一定しないものがある時点・地点で動きを止めて落ち着いた状態になることが安である。
・anという語のコアイメージは何であろうか。コアイメージを捉えるのが語源の研究である。王力(現代中国の言語学者)は安・按・遏・圧などを同源とし、押さえ止めるという意味があるという(『同源字典』)。また藤堂明保は安は按(上から下へ押す)・案(ひじを落ち着ける机)・遏(押さえてとめる)と同系のことばという(『学研漢和大字典』)。
動くものがある段階で動きを止めるのは、そのものに一定の力が働いてストップすると考えることができる。これを言語のイメージで捉えると、「上から押さえる」というイメージが「ある所で動きが止まる」というイメージに展開したと考えてよい。したがって「上から下に押さえる」が・anのコアイメージとすることができる。このコアイメージが具体的な文脈で実現されたのが「混乱・動揺・危険な状態が押さえられて止まり、じっと静かに落ち着く」という意味である。ちなみに「手に力をかけて押さえる」という動詞的な用法は按摩の按で造形された。また時刻が遅くなることが晏であるが、この図形の意匠は太陽を擬人化して、日が西の空の下に落ち着く情景を暗示させている。
ここで安の字源に立ち返ると、「宀(いえ)+女」を組み合わせて、女が家の中にいる情景でもって、・anという語を表記したものである。これ以上の深読みはしない方がよいだろう。深読みすると何とでも解釈がつく。