「暗」

白川静『常用字解』
「形声。もとの字は闇で、門の中で音を発することを示す。門は神を祭る戸棚の両開きの扉の形。そこに神への祈りの文である祝詞(言)をおいて神意を問う。・・・言のᄇの中に、神の応答の音を一で表して音の形となる。神棚の前のᄇの中から、夜中に神の声、神の訪れの音がすることを表現したのが闇の字である。神意は夜中にかすかな物音で暗示されるので、闇(暗)は‘やみ、くらい’の意味に用いる」

[考察]
白川漢字学説では形声の説明原理がないから、会意的に説明される。AとBの意味を合わせてCの意味が出てくるという解釈法が会意である。門(神棚の扉)と音(神の訪れる音)を合わせて、門の中で音が発することが闇で、神の訪れは夜中のできごとで、神意が夜中に示されるから、闇(=暗)は「やみ、くらい」の意味になったという。前段は形から意味を読み取ったもの、後段は意味の転化の説明になっている。
形に意味があり、意味は形から生まれるというのが白川漢字学説の最大の特徴である。しかし意味は言葉にあるのであって、形(図形、文字)にはない。音声である言葉を代替するのが文字である。「漢字の意味」というのは便宜的な言い方で、本当は言葉に意味があるのである。漢字の意味というのは古典漢語の意味である。この歴史的事実を曖昧にすると、「形に意味がある。意味は形から出てくる」といった誤った学説が生じる。これは言語学的に受け入れがたい俗説と言ってさしつかえない。

上の字源説は図形の見方にも問題がある。門は家の門であって、神棚の扉ではない。また音が神の訪れる音というのは奇妙である。恣意的な解釈というほかはない。
暗と闇を同字にしたのも問題である。暗と闇は音義が共通だが、全く同字とするわけにはいかない。暗と闇はともに戦国諸子に用例があり、どちらが古いかは言えない。ほぼ同じ時代に創造されたと言ってよいだろう。暗は闇とは別に解釈すべきである。
暗はどう解釈すべきか。『韓非子』には次のような用例がある。
 原文:以爲暗乎、其光昭昭。
 訓読:以て暗しと為さんか、其の光昭昭たり。
 翻訳:[宇宙の根源である道は]暗いものかと思ったら、かえって明るいものだ――『韓非子』解老

光が差さないために暗いという意味で使われている。暗という図形から意味が出るのではなく、「くらい」の意味をもつ古典漢語の聴覚記号・əmを視覚記号に変換して暗が創作された。漢字を見る見方は形→意味の方向ではなく、意味→形の方向に見ないといけない。もし形→意味の方向に見ると、形は何とでも解釈がつくから、とんでもない意味が出る恐れがある。しかし意味は古典の文脈に使用されるのであって、始めから限定され、制約される。意味→形の方向に見れば、漢字の勝手な解釈の歯止めになる。

暗は・əmの意味のイメージを表現するため、どんな工夫で図形化されたのか。これは字源の問題であるが、字源は語源を前提としないと捉えるのが難しい。古人の造形法は語の同源意識を利用するものである。「おと」を意味する・iəmと、「くらい」を意味する・əmが同源であり、前者から後者が派生したと考えるのが、同源意識である。なぜこれが同源かは音のレベルだけではなく、意味のレベルでも把握して初めて言えることである。この同源意識があるため、前者を表記する音を用いて暗が造形された。音と暗は音とイメージでつながる語である。ではどんなイメージなのか。
古典漢語は一つ一つの記号素がすべてコアイメージを持っている。深層構造の核となるのがコアイメージである。音のコアイメージとは何か。詳しくは該項で述べるが、「ふさぐ」「中にこもる」がコアイメージである(103「音」を見よ)。言葉は音を分節化したもので、はっきりと切れ目のある音声だが、「おと」はウーウーといううなり声であり、切れ目のない無意味な音声である。うなり声は口を閉じて声を出そうとするが言葉にならないものである。このような無意味な音声を古典漢語では・iəmといい、これを「音」と図形化する。音は「言」の「口」の中に「一」の符号を入れた図形で、この意匠によって、声を口の中にこもらせ、言葉にならずにうなり声だけが出る情景を暗示させる。音は口の中にこもって言葉にならないので、・iəmという語には「中にこもる」「外から覆ってふさがる」というイメージがある。

音と意味の双方につながりのある記号を「音・イメージ記号」と呼ぶ。「音(音・イメージ記号)+日(限定符号)」を合わせたのが暗である。「音」は「中にこもる」「外から覆ってふさがる」というのがコアイメージ(103「音」を見よ)。日は太陽と関係があることを示す記号(限定符号)。したがって、内部をふさがれて(あるいは何かが覆いかぶさって)日の光が中に到達しない情景を暗示させる図形が暗であると解釈できる。もちろんこれは図形的解釈であって意味ではない。語の意味は上に述べた通り「(光が差さず)くらい」である。