「医」
正字(旧字体)は「醫」である。

白川静『常用字解』
「会意。醫の古い字形は毉と書いた。医は匸(かくされた場所)に、悪霊を祓う力のある矢をおく形。殹はその矢に殳(うつの意味がある)を加えた字で、かけ声をかけながら矢を殹(う)ち、その矢の力で悪霊を祓うのである。すべて病気は悪霊のしわざによっておこると考えられれいたので、これで病気を殹(いや)すことができるとされた。病気をなおすお祓いをするのは巫であったので、殹に巫を加えた毉が医の古い字形であった。のちに酒を使って傷口を清めたり、酒を興奮剤に使ったりしたので、殹の下に酉(酒樽の形)を加えて醫となった」

[考察] 
医エイに含まれる矢は武器の「や」であって、「悪霊を祓う力のある矢」というのは何の根拠があるのか分からない。更に殹エイを「かけ声をかけながら矢を打ち、矢の力で悪霊を祓う」というのも分からない。矢に霊力があるのになぜ矢をうつ必要があるのか。また「矢をうつ」というのは何を使って打つのか。武器を使うのか、手を使うのか。悪魔祓いの場面を想像するのが難しい。醫の異体字に毉があり、巫(みこ)が含まれていることから、悪魔祓いを空想したとしか思えない。
白川漢字学説では形声の説明原理がないため、会意的に説くのが特徴である。その結果として、形から意味を引き出し、図形の解釈をストレートに意味とする。要するに図形的解釈と意味を混同するのが白川漢字学説の特徴である。言語学的観点に立てば、意味とは言葉の意味であることは言うまでもない。形に意味があるのではなく言葉に意味がある。形から意味を求めるべきではない。意味は語(古典漢語)が具体的文脈に表出されるもの、要するに語の使い方にほかならない。だから醫の意味は古典を調べれば分かる。
 原文:人而無恆、不可以作巫醫。
 訓読:人にして恒無くんば、以て巫医を作(な)すべからず。
 翻訳:人間でありながら不変の心がなければ、[そのような人に対しては]祈禱も医療も施せない――『論語』子路

古代では病気を治すのに巫術(祈禱・呪術)も行われたであろうが、『論語』では巫術と医術は区別されている。醫は呪術とは違う治病法で、主として薬物か、あるいは鍼や灸を使う治病法である。
病気を治すという意味をもつ古典漢語が・iəgであり、この聴覚記号を視覚記号に換えたのが醫である。これの図形化においては古代の病気観を知る必要がある。古代では存在論的病気観と生理学的病気観があった。前者は病気の原因を物(実体)と見、それが体を犯すことが病気であるとするもの、後者は体を構成するもの(筋肉、骨、臓器など)が不調であるのが病気とするものである。歴史的には体を犯す邪悪な物を病気と見る存在論的病気観が先であろうが、古典時代では二つとも平行していたと考えられる。気血の乱れによる体の不調和を病気とする生理学的病気観は中国医学で明確になる。
さて醫という図形が考案されたのは存在論的病気観が下敷きになっている。醫を分析すると「殹+酉」、殹を分析すると「矢+匸」となる。医→殹→醫の三段階を経て図形が生まれる。
第一段階の医はエイと読まれる記号である。古典では矢を入れる道具(うつぼ)の意味とする。この語の根底にあるのは「しまい込んで隠す」「中に封じ込める」というイメージである。だから「矢+匸(周囲を遮って隠すことを示す符号)」の組み合わせとなっている。
第二段階は「医エイ(音・イメージ記号)+殳(動作を示す限定符号)」を合わせた殹が生まれる。『方言』では「殹は幕なり」、注釈に「蒙幕(覆いかぶせる)を謂ふなり」とあり、「覆いをかぶせて隠す」というコアイメージが読み取れる。ちなみに殹は翳(覆う、かげ)でも使われている。
第三段階が「殹エイ(音・イメージ記号)+酉(限定符号)」を合わせ醫である。これが「病気を治す」の意味をもつ・iəgの図形化である。この図形の意匠は何であろうか。酉は酒に限定する符号だが、酒は薬物の一種である。だから薬物によって病気をもたらす物を押さえこんで隠す(封じ込めて活動させない)という意匠が醫にこめられている。ただしそれは意味ではない。意味はただ「いやす」である。
ちなみに、病気が治る、治すの意味をもつ語はほかに癒と療がある。これらも存在論的病気観に基づいて図形化がなされている。また、治病の治はアンバランスを調節することで、生理学的病気観が反映されている。