「為」
正字(旧字体)は「爲」である。

白川静『常用字解』
「会意。象と手(又、爪)とを組み合わせた形。象の鼻先に手を加えて、象を使役するの意味となる。‘なす、もちいる、つくる、しわざ’ の意味に用いる」

[考察] 
白川漢字学説では形に意味があるとして、形の研究を「字形学」と称している。したがって形の解釈がそのまま意味となる。すべてこの方法が用いられるが、本項の爲の解釈は典型的である。爲は爪(手の形)と象(動物のゾウの形)から成るので、爲の字に「象を使役する」という意味が出たという。意味は形にあり、形から意味が出てくるとする白川学説がはっきり現れている。

形とは何だろうか。意味とは何だろうか。
文字は言語から切り離せない。言語から独立した文字はない。もしあるとすれば、それは文字ではなく、単なる図形か絵である。絵文字などという用語もあるが、矛盾している。定義上、言語と一対一に対応するのを文字というのである(音素と対応する文字、記号素と対応する文字の二種類がある)。言語を表記する手段が文字である。この定義を外すと非科学に陥ってしまい、話にならない。
言葉は聴覚記号である。目に見えない。目に見えないものを目に見えるようにする。これは一種のIT革命である。人類史上初のIT革命は新石器時代に起こった。これが聴覚記号を視覚記号に変換する技術である。記号素の意味部分(概念、イメージ)のレベルで変換するならば表意文字が誕生する。音声部分のレベルで変換すると表音文字が誕生する。原理の違う二つの変換法を人類は発明した。歴史的にはどうやら前者が先に発明されたらしい。それがエジプトの象形文字や漢字である。
なぜ意味部分を目に見えるものに変換する技術が先なのか。それは音声の分析が難しかったからである。例えば爲で表記される言葉(古典漢語)は現代の音声記号を用いるとɦiuarだったと推定されている。これは音素を組み合わせた音節であり、これで一語であるが、音素の分析はかなり難しい技術を要する。音素に分析するのが比較的容易な言語で初めて音声レベルでの変換が可能になる。これが表意文字が表音文字に先立つ理由である。しかも表音文字は表意文字を利用したものもある(例えばアルファベットや仮名)。

漢字は意味のレベルで聴覚記号を視覚記号に変換する文字である。意味は文脈に現れるのでつかみやすい。例えばk'uənはある文脈で「ワンワン鳴く動物」の意味として現れる。この動物を古典漢語でk'uənという。この聴覚記号を音声のレベルで図形化するのは相当困難である。しかし意味のレベルではその動物のイメージを図形に表すことが比較的容易である。かくて「犬」という形(最初は甲骨文字)が生まれた。形とは聴覚記号を視覚記号に切り換えたものである。
では意味は形にあるのか。象形文字の一部は形が意味をもつと言えないことはない。「犬」は「いぬ」を意味するといえるが、あくまで便宜的な言い方である。象形文字の形がそのままの意味を表さない場合が多い。例えば大は手足を広げて立つ人を描いた象形文字だが、大きな人(大人、巨人)という意味かというとそんな意味ではない。「おおきさ」という抽象概念を表している。これからも分かるように字形が意味を表すのではない。意味は形に属するのではなく、言葉に属する。正確に言えば記号素の意味部分である。

爲という形から「象を使役する」 という意味を導くのは完全な誤りである。意味は形にあるのではなく言葉にある。では爲はどんな意味をもつ言葉を表記するのか。意味を知るには具体的文脈でどう使われているかを調べればよい。甲骨文字では爲は祭名や人名で使われていて、意味不明。古典では次の用例がある。
① 原文:爲此春酒 以介眉壽
 訓読:此の春酒を為(つく)り 以て眉寿を介(たす)けん
 翻訳:新米で春飲む酒をつくり 長寿の人を守ります――『詩経』風・七月
②原文:昏以爲期 明星煌煌
 訓読:昏を以て期と為す 明星煌々たり
 翻訳:日暮れをデートの約束としたのに もう明星がきらきら光ってる――『詩経』陳風・東門之楊
③原文:高岸爲谷 深谷爲陵
 訓読:高岸谷と為り 深谷陵と為る
 翻訳:高い岸は谷となり 深い谷は丘となる――『詩経』小雅・十月之交

①は「つくる」、②は「AをBとする」、③は「AがBになる」という意味で使われている。これらに共通するイメージは「Aを変えてBとする」「Aが変わってBとなる」というイメージであるが、A→Bという変化の根源には「手を加える」というコアイメージがある。古典漢語のɦiuarは「手を加える」「人工を加える」というコアイメージを持ち、これが具体的文脈で「Aに手を加えてBをつくる」「Aに手を加えてBにする」「Aが変化してBになる」という意味が現れたと考えることができる。
ɦiuarという聴覚記号を図形化したのが爲である。これは分析困難な字であるが、甲骨学者の羅振玉が「爪+象」に分析してから、ほぼ定説になっている。殷代では黄河流域近くまで象が棲息していたと言われる。「爪(下向きの手)」と「象」を組み合わせて、象を飼い馴らす情景を図形化したと考えられる。もちろんそんな意味を表すのではなく、ɦiuarという語の持つ「手を加える」というコアイメージを表現するのである。つまり自然のもの(野生のもの)に人工を加えて性質を変えるという情景が「爲」の図形的意匠なのである。
図形を解釈してストレートに意味とすると「象を使役する」になってしまうが、そんな意味では使われない。意味は形にあるのではなく言葉にある。爲は上記のような文脈で使われている。漢字を見る眼は形→意味の方向ではなく、意味→形の方向に見るべきである。そうでないと、恣意的な解釈に陥り、あり得ない意味が発生する。これでは漢字教育にも差し障りが生じる。