「尉」

白川静『常用字解』
「会意。𡰥と火と又とを組み合わせた形。𡰥は折りたたんだ衣服や布。これに手で火のしを持ち、こてをあてる形。古く官名に用いられ、中国では廷尉(裁判を司る官名)、わが国では尉ジョウ(獄官)のように用いる」


[考察]
形の解釈から官名を導くが、なぜ官名に用いられるかの説明がない。白川漢字学説では最初から言葉の視点がないから、語の探求は放棄される。白川漢字学説では意味は「形の意味」で、「言葉の意味」ではない。官名は「言葉の意味」である。「形の意味」と「言葉の意味」に大きな乖離がある。白川は尉を「手で火のしを持ち、こてをあてる形」と解釈するが、官名とは結びつかない。
言葉の視点を導入しないと正しい解釈は生まれない。尉は古典でどのような文脈で使われているか。これを調べるのが先である。
 原文:羊舌大夫爲尉。
 訓読:羊舌大夫、尉と為る。
 翻訳:羊舌大夫[人名]が軍尉となった――『春秋左氏伝』閔公二年

尉は軍隊や警察の官名である。廷尉(刑罰をつかさどる官)、都尉(軍事をつかさどる官)などの語もある。いずれも治安に関係のある官職である。治安とは反乱を鎮圧したり、犯罪を抑止することである。だから軍事や警察の官を尉という。この語の深層(コア)にあるイメージは「(力で)押さえる」ということである。
武力で民を押さえる官を古典漢語では・iuədといい、この聴覚記号を代替する視覚記号として尉が考案された。この図形はどのような意匠があるのか。字形を解剖してみよう。
篆文は「𡰥+火+又」の三つの部分に分けられる。𡰥は「尸(しり)+二(重ねる印)」を合わせた形で、ある物の上に尻を重ねて載せる様子を示す図形。上に重ねて載せる状態は、上から下に敷いて押しつける状態でもある。𡰥はこのようなイメージを表す記号になりうる。次になぜ火が出てくるかと言うと、火のし(アイロン)を連想させるためである。衣の皺を伸ばす際、火を入れた箱を衣の上に敷いて押しつけることがある。これが図形に利用された。又は手の形。したがって「𡰥(イメージ記号)+火(イメージ補助記号)+又(限定符号)」と解析する。この意匠によって、火のし(アイロン)で衣を押しつけて皺を伸ばす情景を暗示させる。こうして火のし(アイロン)から発想された「尉」という図形が誕生するが、尉はひのしという実体を表すのではなく、官名を意味する・iuədのための視覚記号である。なぜ官名を表記する記号としたのか。それは語のコアイメージが「武力で民を押さえつける」というイメージを持つからである。火のしが重力で衣を押さえつけるのと様相が似ている。メタファーの発見がこの図形化を可能にしたと言える。ちなみに火のし(アイロン)という実体を表すための記号として「尉+火」を合わせた熨が後に誕生した。