「異」

白川静『常用字解』
「象形。鬼の形をしたものが、両手をあげておそろしい姿をしている形。田の部分は。畏の字の場合と同じく鬼の頭部。異は正面から見た形である。神秘的な神異のものが、両手をあげて畏ろしい姿をしているので、異は大きく異様な姿のものをいい、‘ことなる、すぐれる’ の意味となり、またそれを‘あやしむ’の意味にも使う」

[考察]
字形から意味を求めるのが白川漢字学説の特徴である。形の解釈をそのまま意味とする。神秘的な神異のものが両手をあげて畏ろしい姿をしている→大きく異様な姿のもの→ことなる、すぐれるというふうに意味を展開させる。
形に意味があるだろうか。そもそも意味とは何か。白川漢字学説では形に意味があるのを当然とし、意味とは何かの定義がない。
意味とは言葉の意味であることは言語学の常識である。これ以外にない。言語以外で意味を云々するのはすべて比喩である。言葉に還元しないと何事も理解できない。言葉で解釈して初めて意味が分かる。
言葉は聴覚記号である。これは二つの要素からできている。音声的な部分と意味(概念、イメージ)的な要素である。この二要素が結合した言葉は聴覚的な記号である。目に見えない。これを目に見えるように切り換えるのが視覚記号の文字である。文字は形、図形である。漢字は意味のレベルで図形化する文字である。意味は言葉に属するものであるが、図形化することで意味を暗示させる。原理の全く違う二つの記号は同一ではない。Aという聴覚記号をBという視覚記号に変換した場合、A=Bではない。Aの意味をaとすると、a=Bでもない。Bは近似的にaを暗示させて、Aを再現させようとするだけである。
白川漢字学説はBを直接aと等式で結びつける。Bの図形的解釈をストレートにaとする。Aという言葉の意味がaなのに、Bという図形の意味がaだと錯覚する。これが白川漢字学説の本性である。

いったい意味はどこにあるのか。言葉にある。意味はどうして分かるのか。形から分かるのではなく、文脈における語の使い方から分かる。漢字は未知の文字ではない。古典で使われ、何千年も使われている文字である。最初はどう使われたのか、なぜそのような図形になったのか、これを研究するのが我々の目標である。語源、字源の目的はここにあり、未解読の文字を解読しようというのではない。
文字は歴史的、論理的に記述しなければならない。文字は言葉と切り離せない。文字は独立した記号ではない。言葉という聴覚記号を代替する視覚記号である。言葉があってその下位に文字がある。だから出発点は言葉である。どんな言葉かを踏まえた上で、どのように言葉を文字で表記したのかを考える。これが正しい筋道である。

異は古典でどんな文脈で使われているか。これをまず見よう。
 原文:穀則異室 死則同穴
 訓読:穀(い)きては則ち室を異にするも 死しては則ち穴を同じくせん
 翻訳:生きているときは寝室を別にしても[夫婦になれなくても]、死んで同じ墓に入りたい――『詩経』王風・大車

異室は室を異(こと)にする、つまり別の部屋で寝ることである。だから、Aを基準にするとBはそれとは別である、別々にするという意味である。Aとは別にBがある事態や状態を表す言葉を古典漢語でyiəg(推定)といい、この聴覚記号を異という視覚記号(図形)で表記する。
ではどういう発想から異が考案されたのか。ここから字源の話になる。白川が言う通り異は両手を挙げる人の図形であろう。しかし実体にこだわると化け物という解釈が生まれ、化け物は異様だから「異様な、ことなる」という意味が出てくるという解釈になってしまう。これではなぜ両手を挙げているのかさっぱり分からない。漢字の見方は実体よりも機能や形態の特徴に重点を置くべきである。なぜなら抽象的な意味を理解させるには具体的な物の状況や情景からイメージを捉えるように工夫するからである。異の図形も両手を挙げるという形態的特徴に視点が置かれる。Aという物があって、それとは別のBという物があるというイメージを表すために両手を挙げる図形が工夫されたと見るべきである。漢字は静止画像で、動画ではないので、動きを表現できない。しかし人間の脳(知性)は動きを作り出すことができる。まず左の手を挙げ、次に右の手を挙げるという連続した動きを表現するために、同時に両手を挙げる静止画面で読み取らせる仕掛けをしたのである。これが異という図形である。この意匠によって、Aのほかに別にそれと違ったBがあるというイメージを表すことができる。かくて「それとは違う、ことなる」という意味をもつ古典漢語の視覚記号として異が成立した。