「意」

白川静『常用字解』
「会意。音と心とを組み合わせた形。音によってその心をおしはかるので、‘おしはかる’ がもとの意味である。音とは神の‘音ない(音を立てること)’であり、神の前に言(神への祈りのことばや文である祝詞)を捧げておく。この言(神に誓って祈ることば)を神前において祈ると、神は夜間にㅂの中にかすかな音を立てて神意を示す。その音がなにを意味するかを‘おしはかる’、つまり神意をおしはかることを意というのである」

[考察]
 形から意味を導くのが白川漢字学説の特徴である。「音+心」という形から、「神意をおしはかる」という意味を導く。
神の前に言(神に誓って祈ることば)を置くと、神がそれに反応して、夜間に ㅂ(祝詞を入れる器)の中にかすかな音を立てて神意を示す。音とはその音のことだという。その音が何を意味するかをおしはかるのが意だという。しかし疑問だらけである。
神の前に言を置くとはどういう情景か。神様を象った像の前に祝詞を入れた箱を置くのか、神の代わりをするかたしろの前に箱を供えるのか。また、夜間に神が反応して箱の中で音を立てるとはどういうことか。現実には想像できない。宗教、信仰の話かもしれないが、普通の人には理解不能である。
神が立てる音が何を意味するかをおしはかるとはどういうことか。神主や占い師が神のことばの意味を神になりかわって説くのか。ますます朦朧とした観念の世界である。
「音+心」の図形から「神意をおしはかる」という意味を導くのは全く無理というほかはない。

古典で意がどのような文脈で用いられているかを調べるのが先であろう。
 原文:終踰絶險 曾是不意
 訓読:終に絶険を踰(こ)ゆるも 曽(かつ)て是れ意(おも)はざりき
 翻訳:難所すら越えられるというのに あなたは[そんな苦労や努力を]ついぞ思ってもみなかった――『詩経』小雅・正月

古典の注釈では「意は思なり」「意は思念なり」などとある。しかし思は細々と考えることだが、意はむしろ念に近く、思いを心の中にこめることである。意は憶(胸のうちに深く思いをこめる)や臆(胸のうち)と同源である。
古典漢語では心中に思いをこめる(おもう)ことを・iəgといい、この聴覚記号を意という視覚記号で代替させる。意を分析すると「音+心」となる。なぜ音という記号が選ばれたのか。これが語の深層構造と関わるイメージを提供す記号である。音は物理的な音声だが、漢字の造形法は実体よりも機能や形態に重点が置かれる。音を物理的な音声と取ると、神の立てる音などといった奇妙な解釈も生まれる。しかし実体ではなく音のイメージが重要である。音のイメージとは何か。

古典漢語では音と言は対立的に捉えられた。言葉としての音と言は同時に成立したであろうが、図形は言が音よりも先に生まれ、音は言を元にして生まれた。人は音声を発するが、音声を口で調節して意味のあるおとにすることができる。これを言ゲン(ことば)という。言は音声を切り取って意味のあるものにしたおとである。一方、口を閉じて調音しないとウーウーというただ無意味なおとになる。これを音オンという。言の「口」の中に「一」の印を入れた図形が音である。口を閉じて言葉にならずウーウーという無意味なうなり声というのが音の図形的意匠である。したがって「中に閉じ込める、こもる」「ふさぐ」というのが音のもつイメージである。
かくて音声という物理的な実体ではなく、「中にこもる」「ふさぐ」というイメージを利用し、心中に思いをこめることを意味する語を「音(音・イメージ記号)+心(限定符号)」を合わせた意によって表記するのである。