「域」

白川静『常用字解』
「形声。音符は或。或は 囗(都市をとりかこむ城壁)を戈(ほこ)をとって守るの意味で、その守護する一定の地域をいう。或にさらに外周の囗を加えると國となる。城壁で囲まれた都市の支配する範囲を域といい、‘ちいき、くいき、かぎる、くぎる’の意味に用いる」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の特徴である。形声の説明原理はなく、すべて会意的に解釈する。だから本項も会意とすべきである。「国」の字は会意としている。これは矛盾である。

そもそも形声とか会意とか、象形、指事などという旧来の用語(漢字の成り立ちを分類する用語で、六書という)にも問題がある。漢字の原理は「意味のイメージの図形化」という一つの方法があるだけで、実際の造形(図形的意匠作り)の際に、形声的な作り方、会意的な作り方、象形的な作り方があり、厳密な規定はできないのである。
だから次のような漢字の解析法が生まれる。
 (1)A(音・イメージ記号)+B(限定符号) 
 (2)A(イメージ記号)+B(限定符号)
1は形声、2は会意にほぼ当たる。象形や指事はBがない場合に相当する。本項の域は1の解析法である。

白川は或をその形から「都市を取り囲む城壁を戈をとって守るの意味」とするが、或にこんな意味はない。図形的解釈と意味を混同している。また域を「城壁で囲まれた都市の支配する範囲」の意味とするが、これも同じである。
一体意味とは何か。白川は「意味は形にあり、形から意味が出てくる」といい、この研究(すなわち文字の研究)を「字形学」と称している。しかし意味は形にあるのではなく言葉にある。これは言語学の常識である。言葉は音と意味の結合した聴覚記号である。聴覚記号を視覚記号に換えたのが文字である。言葉と文字は全く異質の記号であり、同一視することはできない。形に意味があるという錯覚は、言葉と文字の混同(古くから中国では言葉と文字を同一視する傾向がある)が招いたものである。言葉と文字の峻別が漢字研究の鉄則である。

域をどう理解すればよいのか。まず古典で域がどんな意味をもつ言葉を表記しているかを調べる必要がある。
①原文:葛生蒙棘 蘞蔓于域
 訓読:葛は生じて棘を蒙(おほ)ふ 蘞は域に蔓(は)ふ
 翻訳:クズは生えてサネブトナツメを覆い ヤブガラシは墓の区域に這っていく――『詩経』唐風・葛生
②原文:域中有四大、而王居其一焉。
 訓読:域中、四大有り。而して王は其の一に居る。
 翻訳:世界に四つの大なるものがあり、王はそのトップにいる――『老子』第二十五章

①は墓という区切られた場所であるが、墓は意味素に含まれない。ただ「区切った場所」の意味。②は世界だが、これは意訳。宇宙全体を視野に入れて、その中の「区切られた場所」の意味である。範囲の大小に関わりなく「一定の範囲に区切った所」を古典漢語で ɦiuəkといい、この聴覚記号を視覚記号で域と表記するのである。
では域はどうして考案されたか。なぜ或という記号が選ばれたか。ここから初めて字源の話になる。しかし字源は語源を前提にしないと勝手な解釈を許してしまう。語源は字源の恣意的な解釈の歯止めになる。

或を分析すると、口+一+戈の三つの符号に分けられる。口は「くち」ではなく、場所を示す際によく用いられる符号である。 一は線引きをする符号である。口の上下にも、また左右にも一をつけた場合もある(左右の場合は縦の線)。これは周囲を区切ることを示している。或では下に一つだけの線になっているが、これは省略形と見てもよい。戈はほこの形であるが、戦争の武器に限定する必要はない。単に道具を示すための符号として使われることもある。識などの戈は印をつける道具である。
これら三つの符号を組み合わせた或の図形的意匠は、道具を用いて線引きをして、一定の場所(範囲)を区切る情景ということである。これによって「ある範囲(枠)を区切る」というイメージを表すことができる。これこそɦiuəkという語のコアイメージである。
ɦiuəkという語は具体的文脈では区切られた一定の場所という意味が実現される。これを表記するために「或(音・イメージ記号)+土(限定符号)」を合わせた域が考案された。
一方、政治的に支配する領域を古典漢語ではkuəkといい國と表記される。域と國(=国)は双子漢字といってよい。