「一」

白川静『常用字解』
「指事。数を数えるときに使う算木という木一本を横さまにおいた形。一本の算木によって数の一を表し、‘ひとつ’ の意味となる」

[考察]
形から意味が出るとするのが白川漢字学説の特徴である。算木一本→「ひとつ」の意味になった、という。しかし算木よりも数の観念が先ではなかろうか。数の観念と結びついた言葉が先にあり、文字がない時代に物(例えば木や石など)でそれを示すようになり、文字の発明につながったと言えば話は分かる。

いったい「一」は数字なのか、漢字なのか?漢字の「一」は横線が一本、アラビア数字(算用数字)は縦線が一本で、縦横の違いはあるが、非常に似ている。だから「一」も数字と考えたくなる。しかしこれは大いに間違いである。漢字の「一」は算用数字の1と対応するのではなく、例えば英語のoneと対応する。つまり「一」は数字ではなく、数詞なのである。数詞だから言葉の一種である。どんな言葉か。
古典漢語では数のひとつを・ietという。 この聴覚記号を表記する視覚記号が「一」である。「一」が数字と違うのは言葉を表すという点である。算用数字の1は言葉と一対一に対応するのではなく、物がひとつあるという数量の観念と結びついている。いろいろな言語において数量がひとつであることを意味する数詞があるが、数字はこれら不特定多数と対応する。これは言葉の性質とは相容れない。だからそれは言葉ではなく、数を表すだけの記号である。こういうわけで「一」は数字ではなく、漢語の数詞を表す文字である。その意味では漢数字といえるが、正しく言えば「数漢字」というべきであろう。

「一」は数字ではなく数詞と対応する。ここで表記上の問題がある。例えば「1つ」などと書くことがあるが、これは正しいか。1は数字であって言葉とは対応しない。言葉と対応するのは「一」である。したがって「一つ」という表記が正しい。「1人2役」「1喜1憂」も変である。もちろん一人二役、一喜一憂だ。他の数詞でも同じ。「10人10色」ではなく十人十色。ただし単純に人数を数えた場合の表記としては「10人」もありうる。
 
さてひとつを意味する・ietの表記として、なぜ「一」が発生したのか。これは字源の話である。あまりに単純なので問題は少ない。白川は一本の算木の形だという。殷代に算木が存在したかは確証がない。ありそうではあるが、算木にこだわる必要はない。象徴的符号と見ることもできる。横の一本の線で数が「ひとつ」であることを象徴的に表現したのである。なぜ縦ではなく横か。それは書写の都合だろう。甲骨文字では文字はナイフで刻み、縦書きである。数詞を縦の線で書いた場合、4は幅が広くなり、はみ出してしまう。だから横線と考えられる。別の理由もある。実は「|」という字もあった。これは現在の「十」である。「一」は横線、「十」は縦線と区別したのである。

「一」で重要なことは、数量詞(数量を数える言葉)であるとともに序数詞(順序を数える言葉)でもあるということである。一か月と一月の「一」は意味が違う。一か(箇・个)月の「一」は数がひとつであるが、一月の「一」は一番目の意味である。英語ではoneとfirstは全く別の言葉であるが、漢語では同じ言葉である。これは原始的と見るべきだろうか。答えは否であろう。それは単なる言語の習慣であって、数量の一も序数詞の一も同じものと認識されたに過ぎない。もちろん「一」以外のすべての自然数で、数量詞と序数詞が漢数詞体系では区別されない。特に区別が必要な場合は「第~」のような接頭語をつけるか、「~番目」のような接尾をつける。
もう一つ重要なことは「一」が多義的な言葉だということである。「一」は数の1のほか、序数の1、始め、一つにする(動詞)、全部、同じ、もっぱら、ひとたび、少し、或る、などの意味がある。このような多義性は一つの深層構造から生み出される。語の根底にあるイメージをコアイメージという。・ietという語のコアイメージは「いっぱいに詰まる」ということである。言い換えれば、物がまとまって分かれていない状態、未分化の状態である。ここから統一性、全体性のイメージに展開する。数の・ietは分化する前の統一性(ひとまとまり)というイメージが根底にあり、このコアイメージが多義的な用法を生み出したといえる。