「飲」

白川静『常用字解』
「会意。もとの字は㱃に作り、酓インと欠ケンとを組み合わせた形。酓は蓋(今)をした酒樽(酉)。欠は人が口を開いて飲む形。㱃は酒樽の中の物を飲む形で、‘のむ’の意味となる。食は蓋(亼)をした食器の形であるから、その中の物は飲むものではないが、のちに㱃に代わって飲が‘のむ’の意味の字として使われる」

[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の特徴である。Aの字とBの字を合わせた字は、意味もAの意味とBの意味を合わせたものとする。形の解釈をもって意味とする学説である。
酓(蓋をした酒樽)と欠(人が口を開け飲む)を合わせて、酒樽の中の物を飲む→「のむ」の意味が出たという。しかし「のむ」の意味は欠に含まれているだろうか。欠は口を大きく開けて欠伸をする人の形である。欠ケン自体は「あくびをする」という意味である。歌や欧に含まれる欠は口を開ける動作に関係することを示す限定符号であって、必ずしも「のむ」動作に限定されない。酒樽と欠を合わせて「のむ」の意味を引き出すのは無理である。だいたい酓に酒樽という意味はない。
形から意味を求める方法に問題がある。意味は形にはなく、言葉にある。意味とは言葉の意味である。言葉が具体的文脈で使われる際に現れるのが意味である。飲が古典でどのように使われているかを見てみよう。
 原文:宜言飲酒 與子偕老
 訓読:宜しとして言(ここ)に酒を飲み 子シと偕(とも)に老いん
 翻訳:物を味わってから酒を飲み あなたと共白髪までと誓います――『詩経』鄭風・女曰鶏鳴

液体(酒や水など)をのむ意味で使われている。のむことを古典漢語では・iəmという。この聴覚記号を視覚記号に換えたのが飲である。「食」は食べ物だが、飲み物も含まれる。飲食物に関わることを示す限定符号になる。飯・飼・餌・餅などがこの限定符号を用いている。欠は大口を開けてあくびをする人の形で、「大口を開ける」というイメージを示すことができる。したがって「のむ」を意味する・iəmの表記に「欠(イメージ記号)+食(限定符号)」を合わせた飲が考案された。形からは「のむ」の意味は出てこないが、「のむ」の意味をもつ語をどう形に表したかという視点で見ると、このように解釈できる。漢字を見る目は形→意味の方向ではなく、意味→形の方向で理解すべきである。

飲は隷書以後にできた字体で、篆文は㱃の字体であった。実はこの図形に飲の深層構造が見てとれる。今という記号に注目すべきである。これは陰でも出てきたが、「下の物や中の物を覆いかぶせて閉じ込める」というコアイメージを示す記号である(42「陰」を見よ)。陰のコアイメージは「かぶせてふさぐ」であると指摘したが、飲も「中に入れてふさぐ」がコアイメージなのである。
「のむ」という行為を古人はどう捉えたか。『釈名』(後漢の劉熙の著)には「飲は奄(覆いかぶせる)なり」と言っている。続けて「口を以て奄(ふさ)ぎて引きて之を咽(の)むなり」と言っている。物を丸呑みにするのは吞ドンというが、飲はこれとは違う。液体はこぼれないように口に入れてから、それを唇や口蓋で中に覆いかぶせてふさぐ。そうしてからのどに押し込んでいく。液体を唇や口蓋でかぶせてからのどに押し込むという一連の行為の前半に視座を置くのが・iəm(飲)、後半に視座を置くのが・en(咽)である。ただし実際の用法は「のむ」行為一般を飲というのである。特にのどに押し込む場合に限って咽(咽下エンゲの咽)を使っている。

さて今がコアイメージの源泉となる記号であり、「のむ」を意味する・iəmの深層構造にこのイメージがある。それの図形化(視覚記号化)は今→酓→㱃と、三段階を経て造形された。「今(音・イメージ記号)+酉(限定符号)」を合わせた酓は酒をのむ場面に設定した図形。このような具体的な情景の図形化を経て、「酓(音・イメージ記号)+欠(限定符号)」を合わせた㱃が生まれた。欠は歌・欧・歎など同様に口を開ける動作に関わる限定符号として使われている。酓が今の「かぶせてふさぐ」というコアイメージを引き継ぐ記号となっている。酒をのむというのは図形化のための具体的状況作りであって、・iəmの意味を表すわけではない。形から意味を引き出すと「酒をのむ」という限定的な意味になってしまう。