「易」

白川静『常用字解』
「会意。日と勿フツとを組み合わせた形。日(玉)がかがやいて、その光が放射する形を勿で示した。玉が台の上にある形は昜で、太陽の陽のもとの字である。玉の光には霊的な力があって、ものを変化させることができると考えられた。それで易には変化する、‘かわる’ という意味と、‘容易である(やさしい)’という意味とがある」

[考察]
解字も意味の解釈も問題がある。 会意というのはAの字とBの字を合わせたCという形に対して、Aの意味とBの意味を兼ね合わせたものがCの意味だとする方法である。上の字解では、日は太陽の日とは別、勿は物に含まれる勿(すきの形)とは別で、意味をなす字ではない。易の全体が玉が輝いて、その光が放射する形とされているから、会意ではなく象形とすべきであろう。
また、光を放射する玉の形から「かわる」「やさしい」の意味を導くのはいかにも短絡的である。「玉の光にものを変化させる霊的な力がある」という説明がないと理解し難い上に、「玉にものを変化させる霊的な力がある」という観念や信仰があったのかの証拠もない。

形から意味を求めるのは合理的ではない。意味は言葉にあるのであって、形にあるのではない。意味は古典における語の使い方である。古典はすでに漢字で書いてあり、未解読の文字ではなく、意味のある語と結びついている。漢字が古典漢語を喚起し、その古典漢語の指示するものが意味である。だから古典の用例を調べると意味が分かる。易には次の用例がある。
①原文:滔滔者天下皆是也、而誰以易之。
 訓読:滔滔たる者は天下皆是れなり、而して誰か以て之を易へん。
 翻訳:洪水のように流れていくのが世界のすべてだ、誰がそれを変えられようか――『論語』微子
②原文:小人學道則易使也。
 訓読:小人は道を学べば則ち使ひ易し。
 翻訳:小人物が道を学ぶと使いやすくなる――『論語』陽貨

①は「変える・変わる」の意味、②は「やさしい」 の意味で使われている。二つの意味は懸け離れていて、無関係のように見える。
「変わる」とはAという物(あるいは状態)がBという別の物(状態)になることである。この意味の古典漢語をyiekという。この聴覚記号を視覚記号に変換する際に易という図形が考案された。易の解釈としていちばん古い説は『説文解字』に「易は蜥易セキエキ、蝘蜓エンテン、守宮なり」とあり、トカゲやヤモリの類という解釈である。通説ではトカゲの形で、トカゲは姿を変えるから「変える」の意味になったとされる。しかしこれは安易な意味の取り方である。
字源の前に語源を考える必要がある。王引之(近世の古典学者)は「易は延なり」「易は移なり」という。また藤堂明保は地・氏・逓などと同源で、「薄く平らに延びる」という基本義があるという。これらを参考にすると、「物が平らに延びて移る」というのがyiekという語のコアイメージと考えられる。このコアイメージを図形化したのがまさにトカゲやヤモリを描いた易である。これらの爬虫類は平面にへばりついて移動する。実体に重点を置くのではなく、形態的・生態的特徴に重点を置くと、「平らに延びて移る」というイメージが捉えられる。コアイメージが具体的文脈で実現される際、「平ら」に視点を置くか、「移る」に視点を置くかで意味が変わってくる。
「移る」に視点を置いた場合。Aの点からBの点に移ると、位置や場所が変わる。ここに「AからBに変わる」という意味が実現される。1では天下のある状態が別の状態に変わることを易といっている。
「平ら」に視点を置いた場合。「平ら」のイメージは「でこぼこや摩擦や抵抗がない」 というイメージに転化する。ここから「難しくない」「やさしい」という意味が実現される。2は人を使うことが難しくないことをいっている。2の場合は1のyiekの語尾がyiegに変わったと推定される。
以上のように字源の前に語源、語源の前に古典の用法を究明すれば、なぜその字(図形、視覚記号)が生まれたかの理由が分かる。
漢字を見る眼は形→意味の方向ではなく、意味→形の方向でないと袋小路に入ってしまう。