「閲」
正字(旧字体)は「閱」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は兌。門は軍門。戦いが終わって、その手柄を示す捕獲物の数を実地に検分する(しらべる)ことを閲といい、‘かぞえる、しらべる、けみする’ の意味に用いる」

[考察]
白川漢字学説には形声の説明原理がない。すべての漢字を会意的に説くのが特徴である。本項は兌の説明ができないので形声として逃げている。閲がなぜ「戦いが終わって、その手柄を示す捕獲物を実地に検分する」という意味になるのかさっぱり分からない。
意味はただ「しらべる」だけだろう。ほかは余計な意味素である。いったい意味とは何なのか。

白川漢字学説は「形に意味がある」としているが、これは大きな誤りである。意味が言葉の意味であることは言語学の常識である。言葉(記号素)は音声要素(聴覚映像)と意味要素(概念・イメージ)の結合したものというのが定義であり、意味は言葉の一要素なのである。言葉は聴覚記号であり、これを視覚記号に換えたのが文字である。意味は文字の形に属するのではなく、言葉に属するのである。
形から意味を引き出すのは間違った方法である。ではどのようにして意味を知るのか。言葉を綴った文脈を調べれば意味が分かる。閲はどんな文脈に現れるか。最初の用例は次の通り。
 原文:秋八月壬午大閱。
 訓読:秋八月壬午、大いに閲す。
 翻訳:秋八月みずのえうまの日、大々的に閲兵した――『春秋』桓公六年

閲兵の閲は一つ一つ数えてチェックする、チェックして調べるという意味である。閲覧・検閲・校閲の閲も 書物やそこに書かれたものをチェックして調べることで、閲兵の閲と意味は同じである。
一つ一つ数えたりチェックしたりしながら調べることを古典漢語ではyiuat(推定)といい、これを閲と表記する。なぜこの図形が考案されたのか。兌という記号がコアイメージに関わる基幹記号である。兌についてはすでに鋭と悦でも触れているが、「中身を抜き出す」というコアイメージを示す記号である。兌は脱・説・税などの基幹記号にもなっている。これらの語群の深層に「中身を抜き出す」というイメージが共通である。「一つ一つ数をチェックする」というイメージをもつyiuatという語もこの仲間だという語源意識が働いて兌という記号を用いて造形が行われた。物を取り出して一つ一つと点検する作業は「中身を取り出す、抜き出す」というイメージが含まれている。この行為を具体的な場面や状況に設定したのが門(出入り口)の前で中から出てくる人を一つ一つと数を点検する情景である。かくて「兌(音・イメージ記号)+門(限定符号)」を合わせた閲という図形が考案された。意味は人の数を数えることではないし、門とも何の関わりもない。門は図形的意匠を作る際の場面設定のための限定符号である。