「猿」

白川静『常用字解』
「形声。音符は袁。字はまた蝯・猨に作り、音符は爰。袁と爰は同じ音。猿は手が長くてよく物を援(と)り、木に援(よ)じ上ることが巧みであることからいえば、爰の音の字のほうがふさわしい」

[考察]
蝯・猨・猿を同列に論じるのではなく、歴史的な視座から、字体が変わったと見る見方がほしい。そうすれば袁よりも爰がふさわしいとは言えない。
歴史的には蝯→猨→猿と変わった。次の用例がある。
①原文:墜岸三仞、人之所大難也、而蝚蝯飲焉。
 訓読:墜岸三仞は人の大いに難しとする所なり、而して蝚蝯ドウエンは焉(これ)に飲む。
 翻訳:三仞も崩れた岸は人にとって甚だ難所であるが、サルはここで水を飲む――『管子』形勢解
②原文:深林杳以冥冥兮 猨狖之所居
 訓読:深林杳として以て冥冥たり 猨狖エンユウの居る所
 翻訳:深い林は薄暗く サルの住む所――『楚辞』九章・渉江
③原文:置猿於柙中則與豚同。
 訓読:猿を柙中に置けば、則ち豚と同じ。
 翻訳:サルを檻に入れればブタと同じようになる[飼い慣らせる]――『韓非子』説林下

現代の動物学者は蝯・猨・猿をテナガザル科のHylobates(テナガザル属) に同定している。このサルは前肢が長いのが特徴。また木に登るのがうまい。古典では「蝯は援なり」の語源意識があった。爰は「引っ張って中間にゆとりをあける」というイメージを表す記号で、前半に視点を置くと「引っ張る」というイメージがある(援の項参照)。だから古人は木の枝を引っ張って移動するという生態的特徴に着目して、テナガザルを爰・援と同音でɦiuănと名づけ、「爰(音・イメージ記号)+虫または犬(限定符号)」を合わせた蝯または猨で表記した。
一方、爰は「(空間的に)ゆったりしている」というイメージがあり、「幅があいてゆったりしている」→「長く延びる」というイメージにも転じうるので、手の長いという形態的特徴を捉える語源意識も生まれた。この語感から字体を爰→袁に変えた猿の表記が生じた。袁は園で説明したように長衣(コートやガウンの類)から発想された記号で、「中があいてゆったりしている」というイメージがあり、ここから「空間的に幅や長さがあってゆったりしている」というイメージにも転じるので、テナガザルを「袁エン(音・イメージ記号)+犬(限定符号)」を合わせた猿で表記するようになった。
ちなみに日本産のサル(ニホンザル)はオナガザル科のMacaca(マカック属)であって、猿とは別種の猴コウに当たる。しかし日本では猿の字を代用している。