「遠」

白川静『常用字解』
「形声。音符は袁。袁は死者の衣の襟もとに人の精気を盛んにする魂振りとして玉(〇)をおき、枕もとに之(足あとの形で、行くの意味)を加え、死者が死後の世界に旅立つのを送ることを示す字で、遠のもとの字。土は之の変化した形。袁に辵(辶・辶。行くの意味) を加えた遠は、遠くへ行くの意味を表し、‘とおい’の意味となる」

[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。死者が死後の世界に旅立つのを送ることから、「遠くへ行く」の意味が出たという。しかし袁が「旅立つ人を送る」の意味なら、 見送ることであって、当人が遠くへ行くことにはならない。意味展開の筋道がおかしい。
字形の説明にも疑問がある。衣がなぜ死者の衣なのか。〇の形がなぜ魂振りの玉なのか。また枕もとに之(足あと)を置くとは、いったい何のことか。死んだ人の枕元か。誰の足あとを置くのか。状況がはっきりしない。

言葉という視点が抜け落ちているのが白川漢字学説の特徴である。だから形から意味を導く。しかし形に意味があるだろうか。意味とは何か。白川漢字学説では意味の定義がない。言語学では言葉(記号素)は音声要素(聴覚映像)と意味要素(概念・イメージ)の結合したもので、音と意味は言葉の要素と定義される。意味は言葉に属するものであって、形に属するものではない。形とは聴覚記号を視覚記号に換えたものである。
漢字は次の図式で表される。
          音(記号素の読み方)
 漢字(図形素、形)=――――――――――
          義(記号素の意味)
漢字の形は古典漢語の一つの記号素を図形に換えたものである。漢字の音と言っているのは実は記号素の読み方であり、漢字の義と言っているのは実は記号素の意味である。簡単に言えば言葉の意味である。

遠の意味とは古典漢語ɦiuănの意味である。この意味が形にあるのではないとすれば、どこにあるのか。この語の使われる文脈にある。古典における遠の文脈として次の用例がある。
 原文:誰謂宋遠 跂予望之
 訓読:誰か謂ふ宋は遠しと 跂(つまだ)て予之を望む
 翻訳:宋が遠いと誰が言う 背伸びすれば見えるのに――『詩経』衛風・河広

遠は空間的に隔たりが大きい(とおい)という意味で使われている。これを古典漢語でɦiuănという。この聴覚記号を視覚記号に変換して遠が考案された。遠は「袁(音・イメージ記号)+辵(限定符号)」と解析する。袁は園・猿・轅・瞏(環・還)などのグループの共通のコアイメージを提供する記号である。遠もこのグループの一員、つまり同源であるという語源意識から生まれた語であり、図形である。
袁についてはすでに78「園」で説明している。「丸く中があいてゆったりしている」というコアイメージを示す記号である。これは長衣(コートやガウンの類)から発想されたイメージである。「中が広くあいて丸く取り巻く」というイメージ、「空間的に幅や長さがある」というイメージから、「長く延びる」というイメージにも展開する。だからA点からB点まで空間的距離が長く延びている状態、つまり「とおい」ということを暗示させるのが遠である。