「往」

白川静『常用字解』
「形声。音符は㞷(オウ)。㞷が往のもとの字。㞷は王(王位の象徴である鉞の頭部の形)の上に、之(足あとの形で、行くの意味)をそえた形。王の命令で旅に出るときには、王位の象徴である神聖な鉞の上に足を乗せる儀式をし、鉞の霊の力、威力を身に移して出発した。それで㞷に“ゆく”の意味がある」

[考察]
形から意味を引き出すのが白川漢字学説の方法である。形声の説明原理を持たないため、会意的に解釈するのも白川漢字学説の特徴である。それは言葉という視点が抜け落ちていることと関係がある。
白川漢字学説では音というのは漢字の読み方(呼び方)としか考えていないようである。音の定義も意味の定義もない。漢字の音といっているものは実は言葉の読み方、すなわち古典漢語の中の一つの記号素の音声部分なのである。これが分からないと漢字も分からない。言葉を抜きにした漢字学になってしまう。そうすると形から意味を求めるしかない。
王は君主(キング)の意味だから、往と結びつかない。これを結びつけるために白川は、何の証拠もない「王位の象徴である鉞に足を乗せて霊力を得て旅に出る儀式」といったものを持ち出す。これは全くの空想の産物である。この儀式から㞷が生まれ、「ゆく」の意味が出たという。なぜ旅の意味ではないのか。白川は「行」の項で「ゆく」の意味だとしている。「往」も「ゆく」の意味だとしたら、往と行は同じなのか。違うとすれば何が違うのか。その説明はない。

言葉の視点を導入しよう。オウと読んでいるのは古典漢語ɦiuaŋが日本で訛ったものである。この語は「前に進んで行く」という意味をもち、「往」と視覚記号化され、次のような用例がある。
 原文:莫往莫來 悠悠我思
 訓読:往く莫く来る莫く 悠悠たる我が思ひ
 翻訳:[貴男は私の元に]行き来しなくなった いつまで続く淋しい心――『詩経』邶風・終風

往と王は全く同音である。㞷は単なる音符だろうか。音符というのは何か。音素文字(例えばアルファベット)では発音記号というが、これは音素を代替する。漢字のような記号素文字では音素とは関係がなく、記号素の読み方を代替する。しかし完全な表出はできないから(音素のレベルに分析していないので)、代替ではなく暗示である。だから音符(発音符号)という用語は適切ではない。では㞷は何と規定すればよいのか。それは音を暗示すると同時にイメージを表現する記号と見て、「音・イメージ記号」と規定すべきである。
王と往が同音であり、かつ共通の記号から成り立っているということは、王と往に対する古人の同源意識の表れである。王と往は深層構造が共通の語である。この深層構造をコアイメージと名づける。王と往を結ぶのは形ではなくコアイメージなのである。これが形声文字を説明する原理でもある。

王は「大きく広がる」「大きい」というコアイメージをもつ(87「王」を見よ)。「王(音・イメージ記号)+止(足と関わる限定符号)」を合わせたのが㞷である。足を進めて距離がぐんぐんと大きくなっていく情景を暗示させ、この意匠によって「ずんずんと前に進んでゆく」ことを表している。往は「㞷(音・イメージ記号)+彳(進行に関わる限定符号)」を合わせて、㞷と同じ意匠であり、「ずんずんと前に進んで行く」ことを意味するɦiuaŋの表記とした。

言葉という視点に立つと、以上のように往を解析する。鉞を足に乗せて旅に出るといった解釈は形の恣意的な解釈であり、それから「行く」の意味を引き出すのは無理があると言わざるを得ない。