「欧」
正字(旧字体)は「歐」である。

白川静『常用字解』
「会意。 欠は口を開いて立つ人。區は匸(秘密の隠されている場所)に多くのㅂ(祝詞を入れる器)をおいて祈る場所をいう。口を開いて大きなうなるような祈りの声をあげることを欧という。その声は歌う声に似ており、口を開いて声を出す形はものを吐く形に似ているので、“うたう、はく”の意味に用いる」

[考察]
『説文解字』が「歐は吐なり。欠に從ひ區の聲」として以来、歐は形声文字とするのが通説であるが、白川漢字学説では形声の説明原理がないため、あえて会意とする。 会意で説明がつかなければ、形声と逃げるしかない。
形声は言葉と関係づける用語だが、白川漢字学説では言葉の視点が欠落しているから、本来的に形声を説明する方法がない。だから会意の手法が用いられる。
会意の手法とは、Aの字とBの字を合わせたCは、Aの意味とBの意味を足した意味であるとするもの。上の字解では、欠(口を開けた人)+區(多くの祝詞を入れる器を置いて祈る場所)→口を開いて大きなうなるような祈りの声をあげるという意味を導く。
しかし歐にこんな意味はない。字形の解釈と意味が混同されている。形の解釈をストレートに意味とするのが白川漢字学説の特徴である。 

では形声の説明原理とは何か。これは中世から近世にかけて、中国の古典学者や文字学者が唱えた説で漢字の音符に意味があるとするもの(これを「右文説」という)。もっとも一部の漢字についてだけの説だったが、これを全面的に発展させたのが藤堂明保である。藤堂は音符は音と意味を兼ねると見て、形声を「会意兼形声」と規定する。しかし音符という用語はふさわしくない。発音符号というのは音素文字(アルファベットなど)に使う用語であって、漢字は記号素文字なので音素のレベルの音とは関係がない。記号素の読み方(音声部分)を暗示させる働きしかない。最も重要な機能はコアイメージを示すことである。だから筆者は音符の代わりに「音・イメージ記号」と呼んでいる。歐は「區(音・イメージ記号)+欠(限定符号)」と解析する。語の深層構造(コアイメージ)を捉えることが形声文字の説明原理にほかならない。
區が語の根幹に関わる基幹記号で、ここに重心がある。欠は語の意味が何と関わりがあるか、つまり意味領域を限定するだけで、直接意味の中に含まれるわけではない。 このように二つの記号の比重が違う。両者をのっぺらぼうに並列させるのが会意的手法である。これでは形声文字が説明できなくなる。

さて歐は古典でどのように使用されているか。この確認が字源の前に先立つべきである。『山海経』に次の用例がある。
 原文:一女子跪、據樹歐絲。
 訓読:一女子跪き、樹に拠りて糸を欧(は)く。
 翻訳:一人の女[蚕の神]がひざまずいて、木によりかかって糸を吐いている。

これが初出の文献で、口から物を吐く(もどす)という意味で使われている。歐は嘔とも書かれるが、嘔の語源については漢代の『釈名』に「嘔は傴(背が曲がる)なり」とあり、吐く姿が傴に似ているからという。後世でも嘔・傴・嫗を同源とする説が出ている。
いったん口に入れた食べ物を吐き出す(もどす)という意味をもつ古典漢語が・ug(推定)であり、これを表記する視覚記号として嘔や歐が創作された。區を用いた理由は區に「曲がる」というコアイメージがあるからである(396「区」を見よ)。「曲がる」というイメージの「區」に「欠」をつけてなぜ「吐く、もどす」の意味になるのか、そんな疑問が起こるかもしれない。これは漢字をどのように見るかに関わる根本問題である。形から意味が生まれるのではなく、意味を形に表したもの、これが漢字だという見方が大切である。形→意味の方向ではなく、意味→形の方向に考えないといけない。では意味はどこにあるのかと言えば、言葉にある。言葉を使用する具体的文脈にある。・ugという言葉が「吐く、もどす」の意味であることは文脈から捉えたものである。これがどのような図形で表記されたかは次の話で、ここでやっと字源の問題になる。
なぜ「區+欠」が考案されたか。それは食べ物をもどす姿に背を曲げる特徴、あるいは背の曲がった人との類似性を見、傴・嫗などと共通のコアイメージを捉え、「曲がる」のイメージを表すことのできる「區」を用い、「區(音・イメージ記号)+欠(口を開けて何かをする行為に関わる限定符号)」を合わせて「歐」を創造したのである。
なおヨーロッパを欧羅巴と宛字したため、欧は専ら欧州の意味で使われ、「吐く、もどす」の意味は嘔吐の嘔に譲った。