「恩」

白川静『常用字解』
「形声。音符は因。因は茵席(むしろ)の上に人が寝ている形で、むしろ・敷物をいう。その敷物は常に使用し親しむものであるから、因に心をそえた恩は、“いつくしむ” という意味となり、愛情を受けることをいう」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。言葉という視点がないため、形声の説明原理がなく、すべての漢字を会意的に説くのが その特徴である。会意とはAという字とBという字を合わせたCは、Aの意味のaと、Bの意味のbの意味を合わせた「a+b」がCの意味であるとするもの。上の場合、因(常に使用して親しむ敷物)+心→いつくしむ(大切にする、かわいがる)というふうに恩の意味を導く。
このような漢字の説き方は形声ではなく、会意である。

では形声というのはどういうものか。Aという言葉がBという言葉と同源であるという関係から、AとBの深層構造に着目して、A=B(音・イメージ記号)+C(限定符号)という造形法で記号を創作する原理である。BがAの深層構造を表現するための基幹記号である。ここに中心がある。CはAの意味領域が何と関わるかを示す符号である。Bが主であり、Cは従である。
「因」はどういう深層構造(コアイメージ)を表象するのか。因はその条で述べた通り、「上に乗る」「重なる」というコアイメージをもつ記号である(38「因」を見よ))。Aの上にBを乗せる(重ねる)というイメージである。「因(音・イメージ記号)+心(限定符号)」を合わせた恩はどういう意味になるのか。
しかしこような問いの仕方は漢字の説明として正しくない。形から意味が出るわけではないからである。形→意味の方向の軸ではなく、意味→形の方向の軸に切り換える必要がある。これが正しい漢字の説き方である。そのためには恩の具体的な文脈における用例を調べることが先立つべきである。
古典に次の用例がある。
 原文:恩斯勤斯 鬻子之閔斯
 訓読:斯(これ)を恩(いつく)しみ斯を勤しむ 鬻子イクシを之(こ)れ閔(あわれ)む
 翻訳:かわいがって面倒見たのに いとけないその子がかわいそう――『詩経』豳風・鴟鴞

恩は「愛情や恵みを与える(いつくしむ)」という意味で使われている。Aという人に対してBが愛情や恵みを与えることであるから、AがBの心にありがたい気持ちをさしあげる、Bの心の上に思いやりを重ねて乗せるというイメージで捉えることができる。それはちょうどAという姓(男側)にBという姓(女側) が重なることを姻(縁組み)というのと同じ構図である。古人の言語意識では因・姻・恩は「重なる」というコアイメージで結ばれた関係にある。このような同源意識から、愛情や恵みを与えることを意味する・ənという古典漢語を恩という図形で表記したのである。