「何」

白川静『常用字解』
「形声。音符は可。可は神に願いごとが実現するように要求し、その承認を求める行為であるから、音と意味が何と関係がある。“なに、なんぞ、いずく、いずれ” の意味に用いる」

[考察]
可の条では「神が許可する」の意味としながら、本項では可は「(願いごとを実現するように神に)承認を求める」の意味としている。神→人から神←人の方向に逆転している。また、可の意味が何(「なに、いずく」という疑問を示す字) と関係があるというが、「(神に)承認を求める」と「なに、いずく」の意味に何の関係があるのか分からない。
形から意味を求めるのが白川漢字学説の方法であるが、言葉という視座がないから、形声文字の説明原理がない。そのため会意的に説く。その結果、形の解釈をストレートに意味とする。これは大きな誤りである。

言葉から出発する視座に切り換える必要がある。それには古典での用例を調べるのが先である。次の用例がある。
①原文:彼候人兮 何戈與祋
 訓読:彼の候人 戈と祋タイとを何(にな)ふ
 翻訳:あの接待係のお役人 ほこと警棒をかついでる――『詩経』曹風・候人
②原文:吉夢維何 維熊維羆
 訓読:吉夢は維(こ)れ何ぞ 維れ熊維れ羆
 翻訳:めでたい夢は何の夢 クマの夢にヒグマの夢――『詩経』小雅・斯干

①は「になう、かつぐ」の意味、②は「なに」という疑問詞に使われている。この二つの意味に何の関係があるのか。これをつなぐのが語の深層構造をなすもの、すなわちコアイメージである。これこそ形声文字の説明原理でもある。
「になう」と「なに」を意味する言葉(古典漢語)はɦarである。この聴覚記号を視覚記号に切り換えたのが何カである。なぜ可を用いて図形化が行われたのか。それは可と何の同源意識である。同源意識というのは同じ語根から派生したという認識であり、派生した語の根底に同じイメージがあるという感覚である。何は「可(音・イメージ記号)+人(限定符号)」と解析できる。可はその条で説明した通り「つかえて曲がる、ᒣ形に曲がる」というコアイメージがある(111「可」を見よ)。したがって肩に荷物をかつぐ姿を「ᒣ形に曲がる」のイメージで捉え、何の図形が考案されたのである。
一方、疑問詞は図形化しにくい。特定の場面に着目して図形化を図る。それは不審なものに対して「誰だ」「なんだ」と詰問する(これを「誰何」という)場面である。これはどなる感じである。しかる、どなるという意味の言葉を呵という。これに可が使われている。どなる行為は息を喉で屈曲させて摩擦させるような音声の出し方で、この状況を「つかえて曲がる、ᒣ形に曲がる」というイメージをもつ「可」で捉えた。かくて「になう」と共通のイメージがあるため、「なに」という疑問詞も何で表せるのである。
「になう」と「なに」は深層では関わりがあるが、表層では使い方が離れ過ぎている。そのため二つを分離させる必要が生じ、「になう」は荷に表記を譲ることになった。