「家」

白川静『常用字解』
「会意。家を示宀(建物の屋根の形) の下に、犠牲として殺された犬を加える。家とは先祖を祭る神聖な建物である廟のことである。(・・・)家はもとは祖先を祭る廟であるが、これを中心として家族が住んだので、人の住む“いえ、住居”の意味となった」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。「家」という字の説明に白川漢字学説の真骨頂がよく現れている。「宀」と「犬」という僅かな情報から、先祖を祭るために犬を犠牲にして埋めてから建てた建物(廟)という意味を導いた。ここには言葉という視座が全くない。これが白川漢字学説の大きな特徴であり、欠点でもある。なぜかと言えば言葉と対応しない記号は文字とは言えないからである。文字であるとすれば必ず言葉と一対一に対応させないといけない。言葉を前提にしない限り、意味を云々することはできない。意味とは言葉の意味であって、字形にあるのではない。図形的解釈をもって意味とする、言い換えれば図形的解釈と意味を混同するのが白川漢字学説の特徴である。
白川漢字学説はなぜ言葉という視座がないのか。一つは甲骨文字や金文は読み方が分からないから、最初から言葉を問題にしない。また一つには、音は漢字の読み方と考えるから、音が分からなくても意味を求めるのに支障がない。しかしこれはとんでもない誤解である。音は漢字の読み方ではない。文字の読み方というのは例えば「あ」をア、αをアルファと読む類であろう。これは文字に対する符牒、文字の名称、呼び方である。漢字の音というのはこれとは全く性質が違う。言葉(記号素)は音声要素(聴覚心像)と意味要素(概念・イメージ)の結合したものというのが定義であるが、漢字の音といっているのは言葉の音声要素であり、音は取りも直さず聴覚心像としての言葉そのものである。音は漢字の読み方(呼び方)ではなく、言葉(古典漢語の一つの記号素)の読み方にほかならない。この事実を無視した漢字学説は言語学から外れており、非科学のそしりは免れないだろう。
以上くどいほど述べたのは、字形から意味を求める方法が間違いであることを言いたいためである。

ではどのように漢字を見るべきか。言うまでもなく言葉から出発しなければならない。古典漢語では「いえ」のことをkăgという。これは聴覚記号である。目に見えない。目に見えるようにするために視覚記号に変換する。その方法は記号素の二要素のうち意味要素のレベルで図形化する。意味そのものを全面的に図形化するのは難しい。そのためイメージや象徴化の方法で図形化を図る。こうして「家」という図形が考案された。これにはどういう意匠(デザイン、図案)がこめられているのか。ここに古人の言葉に対する感覚や意識が絡んでくる。古人の造語・造形の心理を想像してみよう。
「いえ」をkăgという。この語の深層構造は何であろうか。それには「いえ」とはどういうものであるかを古人の思考に添って考える。「いえ」の機能は何といっても雨露をしのぐことにある。雨露をしのぐ最低の条件は屋根をかぶせることであろう。だからkăgという語のコアイメージが「上から覆いをかぶせる」と捉えられる。語源的に見た場合、下・夏・仮などKAGという音形に抽象化できるグループの一員と意識される。これが同源意識である。「いえ」は屋根をかぶせて雨露をしのいで生活する場という意識からkăgと造語されたわけである。それを図案化するために身近な家畜を飼う場面を設定し、「宀(屋根)+豕(ぶた)」を組み合わせた「家」という図形が考案された。形から意味を引き出すと豚小屋になってしまうが、そうではなく、「屋根をかぶせる」という語のコアイメージを最も明らかに示すためにあえて家畜を選んだに過ぎない。語のイメージを象徴化の方法で表現しようとしたのである。ここに古人の図形の作り方、造形法の特徴がうかがえる。抽象的なイメージを具体的な場面や情景を設定して、表出するのが漢字の造形法なのである。形から意味が出るのではなく、意味のイメージを形に表す。これが漢字を見る正しい目(漢字の理解)である。

まとめると古典漢語で「いえ」をkăgといい、「家」という図形(視覚記号)で表記する。最古の文献に次の用例がある。
 原文:誰謂女無家
 訓読:誰か謂はん女(なんじ)に家無しと
 翻訳:お前にいえが無いなんて誰が言うか――『詩経』召南・行露

いえ(家)は日常用語であり、基礎語彙である。この意味が最初であって不思議ではない。白川は廟の意味を引き出したが、もし廟の意味があったとしても、それは特殊であり、「いえ」からの転義と見るべきであろう。