「禍」

白川静『常用字解』
「形声。音符は咼。咼は、冎(人の上半身の残骨)にㅂ(祝詞を入れる器の形)をそえて、禍を祓うことを祈るの意味となる。禍は残骨の呪霊によってもたらされると考えられたのである。示は神を祭るときに使う机である祭卓の形であるから、わざわいを祓う儀礼を禍といい、“わざわい”の意味に用いる」

[考察」
いくつかの疑問点がある。①なぜ上半身の残骨が問題なのか。上半身の残骨とは何か。足のない骸骨のことか。②祝詞は口で唱えて祈る言葉なのに、なぜわざわざ文に書いたものを器に入れるのか。「口」は「くち」でなぜいけないか。③残骨の呪霊とは何か。そんなものが存在するのか。禍が残骨の呪霊によってもたらされるとはどういうことか。神がもたらすと言えば分からないでもないが。④咼に「禍を祓うことを祈る」という意味があるのか。また禍に「わざわいを祓う儀礼」という意味があるのか。いずれも証拠がない。
意味とは字形から来るものではなく、言葉に内在するものである。言葉が具体的な文脈で使われる時に現れるのが意味である。前後の文脈から把握されるのが意味である。

禍は古典で次のように使われている。
 原文:二人從行 誰爲此禍
 訓読:二人従ひ行き 誰か此の禍を為す
 翻訳:二人[夫婦]は連れ添ったのに 誰がこの災難[婚姻の破綻]を作り出したのか――『詩経』小雅・何人斯

古典漢語では「思いがけない不幸や災難」をɦuarといい、禍と表記する。「わざわい」を意味する語に災もあるが、災は順調な流れを止める自然界の出来事(災害、震災など)の意味で、禍とは違う。日本語の「わざはひ」はワザ(隠された神意)+ハヒ(這うように広がる)が語源で、「いましめる神意のきざし」が原義というが(『岩波古語辞典』)、古典漢語の禍は予想外の不幸や難儀の意味である。
禍は「咼(音・イメージ記号)+示(限定符号)」と解析する。咼は関節と関節腔から発想されてイメージ記号になったもので、古人は関節の穴に別の骨がはまり込んで動きや回転の働きが生まれると考えた。だから咼には「丸い」というイメージのほかに「丸く回る」「丸い穴」「丸い穴にはまる」というイメージも表すことができる(129「過」を見よ)。したがって、禍は行き過ぎて思わぬ落とし穴にはまり込む情景という意匠になっている。この図形的意匠によって、思いがけない不幸や災難を意味するɦuarの視覚記号とした。限定符号が示(祭壇、神)になっているのは、災難が人知では予想がつかないから神の領域に限定したのであろう。