「歌」

白川静『常用字解』
「形声。音符は哥。哥は可を重ねた形で、可は㇆(木の枝の形で、杖)で ㅂ(祝詞を入れる器)を殴(う)ち、その祈り願うことが実現することを神にせまるの意味で、“可(べ)し”という命令と“可(よ)し”という許可の二つの意味をもっている。欠は立っている人が口を開いて叫んでいる形で、神にせまるとき、その神に祈る声にはリズムをつけて、歌うように祈ったのであろう。その声の調子を歌といい、“うたう、うた”の意味に用いる」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。言葉という視座がないのも白川漢字学説の特徴である。その結果、形声の説明原理がないので、会意的に説明する。会意とはA+B=Cという具合に意味を取る方法である。可(杖で器を打って、願い事の実現を神に祈る)を重ねた哥+欠(口を開いて叫ぶ)=歌(神に迫る時リズムをつける、その声の調子)と意味を求める。
形から意味を導くこと自体がおかしいが、ほかにこんな疑問点がある。①杖で祝詞の器を打つ行為とは何のことか。こんな行為が現実にありうるのか。②祝詞は口で唱える言葉なのになぜわざわざ文に書いて器に入れるのか。こんな物が存在するのか。 ③杖で器を打つ行為がなぜ願い事を神に迫る意味になるのか。神に迫ることから「べし」という命令の意味が出たというが、人が神に命令することがありうるのか。人が強いなら神頼みすることはあるまい。④神に迫る時リズムをつけて歌うように祈るというが、なぜリズムをつけて神に迫るのか。
なお白川は上の文章に続いて「国語の“うた” も“拍つ、訴う”と関係があるように思われる」というが、『古典基礎語辞典』(大野晋編)には「ウツ(打つ)からウタが起こったという語源説がある。しかし名義抄によるアクセントから考えると、ウタは上平、ウツは平上で合わないため、ウツとウタとの語源的な関連性は認められない」とある。「うったえる(うったふ)」もウルタへの転で、ウタやウツとは関係がないようである(『岩波古語辞典』)。

意味とは言葉の意味であって、字形にあるわけではない。形から意味を導く文字学は逆立ちしている。漢字の説明は形→意味の方向ではなく、意味→形の方向にしなければいけない。では意味はどうして分かるのか。それは古典において使用される文脈にある。前後の文脈から意味が捉えられる。歌は「うたう」を意味する古典漢語karの視覚記号で、次のような用例がある。
 原文:心之憂矣 我歌且謠
 訓読:心の憂ひ 我は歌ひ且つ謡はん
 翻訳:心の中の物思い 歌でも歌って気を晴らそう――『詩経』魏風・園有桃

歌も謡も「うたう」の意味で使われている。注釈によると、徒歌(楽器の伴奏なして歌う)が謡、楽器に合わせて歌うことが歌と区別される。
どんな発想から「うた」が生まれたのか。「うた」の起源は難しい問題だが、「うた」を意味する言葉の起源(語源)は想像するに難くない。可という記号を含む語群(可・何・荷・呵など)との同源意識から発生したと言える。これらの語群には「ᒣ形をなす」というイメージがある(111「可」を見よ)。ᒣは直線が曲がる形なので、∠形、∧形、◡形などのイメージにも転化する。要するにまっすぐ進まないで何かにつかえて曲がるというイメージである。口から音声や言葉を発する場合、声の調子をいろいろに変えることができる。どなり声や節回しもそれである。音声をスムーズに出すのではなく、喉を通るときの音声を摩擦させたりして調音する。ここに「こすれて曲がる」「つかえて曲がる」というイメージがある。このイメージをもつ「可」を利用し、これを二つ重ねた「哥」という図形が考案され、喉元で音を摩擦させて節回しを作り出す状況を暗示させる。この図形で「うたう」を表すには十分であるが、後に「哥(音・イメージ記号)+欠(限定符号)」を合わせた歌が生まれた。また「欠」を「言」に替えて謌とも書かれる。
「どなる(しかる)」 には呵や訶という字が考案された。不審者をどなって尋ねる場合には誰何の何が使われる。呵・訶・何と歌は発生の基盤が共通である。発音・発声を生理学的に捉える(想像する)ことから発想されて形成された語と言える。