「箇」

白川静『常用字解』
「形声。音符は固。箇は説文に“竹の枚なり” とあり、もとは竹べらのようなものの名であるが、それを並べて数を数えたので、その数を示す単位となり、一箇(物一つ)・二箇のようにいう」

[考察]
『説文解字』を読み違えている。「箇は竹の枚なり」というのは、木を数えるのは枚だが、竹を数えるのは箇だということを述べている。箇は助数詞の使い方しかない。
「音符は固」とあるだけで、箇の意味との関わりを説明していない。形声の説明原理がないのが白川漢字学説の特徴である。言葉という視点が全く抜け落ちている。言葉と関わるのは音符のはずだが、白川漢字学説では音符の定義がない。音の定義すらない。音は漢字の読み方としか考えていないようである。
音は漢字の読み方ではなく、漢語の読み方、漢語の一つの記号素の聴覚心像、すなわち音声要素が音である。音符というのは発音記号ではない。発音記号とは音素の読み方を示す記号であって、漢字は音素のレベルとは関係がないから、音符(発音符号)という用語はふさわしくない。漢字は記号素文字なので、読み(音)は記号素の読みである。俗に「音符」と言っているのは、記号素全体の読みを暗示させるのである。しかも読みを暗示させるだけでなく、語のコアイメージも暗示させる機能がある。そこで筆者は音符ではなく、「音・イメージ記号」と呼ぶ。

さて箇は形あるものを数える言葉(助数詞の一つ)で、古典漢語ではkagという。この聴覚記号を代替する視覚記号が箇である。すでに『荀子』などの古典に用例がある。箇は「固(音・イメージ記号)+竹(限定符号)」と解析する。「固」は「固い」がコアイメージである。字形から意味を導くと固い竹の意味になってしまうが、そうはならない。漢字は意味→形の方向は成り立つが、形→意味の方向は成り立たない。助数詞の一つを形に表したのが箇であって、固い竹を意味しない。ではなぜ「固い」か、なぜ「竹」か。竹は固いものであって、固いものは数えることができる。棒や塊という固い物を竹で代表させたに過ぎない。竹は比喩的限定符号である。