「我」

白川静『常用字解』
「仮借。我は鋸の形。もと刃にぎざぎざのある鋸を意味する字であったが、一人称の代名詞“われ” として使うようになった。それで我に代えて、のこぎりを意味する字として形声の字である鋸キョが作られた。(・・・)代名詞はそれを示す適確な方法がなく、すべてその音を借りる仮借の用法である」

[考察]
仮借とあるが、仮借は文字の構成ではなく応用を説明する用語であって、ふさわしくない。「我」は象形とすべきである。「我」を鋸の意味とするが、そんな意味の用法はない。甲骨文字ですでに「我」は一人称の「われ」の意味で使われている。我=一人称(われ)であって、仮借としては、何から何を借りたのかさっぱり分からない。「我」をngarと読むのは一人称の言葉の読みであって、鋸の読みではない。だいたい鋸(kiag)と我(ngar)の音は懸け離れている。
仮借説は成り立たない。
ではなぜ一人称を「我」で表すのか。正確に言えば、「われ」を意味する古典漢語ngarをなぜ「我」という視覚記号で表記するのか。 「我」がぎざぎざの刃のついた刃物(武器)を描いた図形であることは間違いない。しかし実体に囚われると語を捉え損ねる。漢字の見方は実体ではなく、形態や機能を重視すべきである。これこそ漢字の造形法の原理にかなう。つまり言葉の意味のイメージ(コアイメージ)を図形化するのが漢字の造形原理なのである。
「我」からどういうイメージが読み取れるか。 形態に注目する。ぎざぎざは∧∧∧∧の形である。∧と∧を組み合わせると᙭の形である。つまりぎざぎざの形は視点を変えれば᙭の形に転化する。一人称の成立には᙭のイメージが大切である。一人称は「吾」や「卬」もある。「五」は漢数字の五で、一と十の中間点に位置し、←の方向に数え、折り返して→の方向に数える、その中間点が五である。だからngagという語のコアイメージは⇄(交差)のイメージがある。交差は᙭でも表せる。卬(ngang)も同じである。なぜ᙭のイメージかというと、一人称は対話の場面から発想され、A⇄Bという話し手と聞き手の関係において、話し手の側がまさに一人称、聞き手の側が二人称になるからである。かくて一人称は᙭や⇄のイメージをもつnga~と名づけられた。なお二人称は「近い」「くっつく」というイメージのnier(爾)と名づけられた。
かくて一人称をなぜngarといい、「我」という図形的表現を得たかが明らかとなった。我・吾・卬はともに同じ発想で生まれた一人称なのである。