「餓」

白川静『常用字解』
「形声。音符は我。我はもと鋸の形で、刃にぎざぎざのあるものである。それは餓え衰えた人の、あばら骨がごつごつと飛び出ているような姿を連想させるところがある。食に“うえる” ことを餓という」

[考察]
形から意味を導くのが白川漢字学説の特徴である。鋸のぎざぎざした刃→ごつごつしたあばら骨→食にうえると意味を導く。
意味は字形にあるのではなく、言葉にある。だから漢字を説くにはまず言葉から出発すべきである。
まず餓の用例を調べる。次のような用例がある。
 原文:伯夷叔齊餓于首陽之下。
 訓読:伯夷叔斉、首陽の下に餓う。
 翻訳:伯夷と叔斉の兄弟は首陽山の麓で飢えた――『論語』季氏

食物が乏しくてひもじい思いをする(腹をすかす、うえる)という意味で使われている。これを意味する古典漢語には飢と餓がある。ほぼ似た意味である。飢は「几」、餓は「我」という記号にコアイメージの源泉がある。空腹である、うえるという状態は食物が少ないという結果であるので、「小さい」「わずか」というイメージをもつ「几」を用いて飢が生まれた。飢は原因によって結果に代えるレトリックで造語された。一方逆に、原因を結果で表すレトリックもある。腹をすかすことから体が痩せてごつごつする(あばら骨が浮き出る)という結果を招くこともある。この結果に視点を置いて造語されたのが餓である。「我」は白川の言う通りぎざぎざの刃のある武器の形で、「∧∧∧」の形のイメージ、「ぎざぎざ」のイメージを表すことができる(139「我」を見よ)。だから「我(音・イメージ記号)+食(限定符号)」を合わせた「餓」によって、「うえる」を意味する古典漢語ngarを表記する。