「悔」
正字(旧字体)は「悔」である。

白川静『常用字解』
「形声。音符は毎。毎に海・晦の音がある。毎は多くの髪飾りをつけた女の姿で、頭上が鬱陶しいような状態をいう。海・晦には暗いという意味がある。そのような重苦しく、くらい心理状態を悔といい、“くいる、くい”の意味となる」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。 多くの髪飾りをつけた女→頭上が鬱陶しい→重苦しく暗い心理状態→くいると意味を展開させる。しかし「頭上が鬱陶しい」から「暗い」への意味展開には必然性がない。髪飾りをたくさんつけた状態は「はなやか」のイメージであって、「重苦しい」というイメージとは結びつかない。またこれと「暗い」との関係づけもおかしい。
字形から意味を導く方法自体に無理がある。これは誤りと断定してよい。なぜなら意味とは言葉の意味であって、字形の意味ではないからである。字形は意味を暗示させるが、図形的解釈は意味そのものではないし、図形が意味を作り出すわけではない。意味は文脈からしか出てこない。
では古典で悔(正字は悔)はどんな文脈で使われているか。次の用例がある。
 原文:俟我乎巷兮 悔予不送兮
 訓読:我を巷に俟つ 予の送らざるを悔ゆ
 翻訳:[彼女は]路地で待っていたのに 見送りに行かなかったのが悔やまれる――『詩経』鄭風・丰

「くやむ」という意味で使われている。悔には「くやし」「くゆ」「くやむ」の訓がつけられた。「くやし」とは「自分のしてしまった行為について、それをしなければよかったとくやむ気持」で、「くゆ」「くやむ」は「自分のしたことを後でよくなかった、しなければよかったと思う」の意味という(『岩波古語辞典』)。古典漢語の悔は古典の注釈に「悔は晦なり」とあるように、晦(暗い意)と同源とされている。つまり暗い気分になることが悔だという。しかしこれは舌足らずである。なぜ暗い気分になるのか。それは日本語の「くやむ」と共通の心理状態であろう。つまり自分の失敗した行為を後で思い出し、その結果暗い気分になるのである。「くやむ」という心理動詞は晦からの派生語で、huəi(クワイ)と造語され、悔と造形された。
悔(正字は悔)は「每(音・イメージ記号)+心(限定符号)」と解析する。每は「母(音・イメージ記号)+屮(限定符号)」と分析する。「母」が根源のイメージを提供する記号である。母は実体はもちろん「はは」であるが、漢字は実体よりも形態や機能が重視される。母は生む存在である。物を生む行為は無から有を出現させることである。子宮は無から有を生みだす場である。無の世界から有が次々と出てくる。無の世界は「暗い」のイメージであり、有の世界は「明るい」のイメージである。無から有が出てくるのは、暗いところから明るいところに姿を現すことである。かくて「母」は「はは」という実体を離れて、「無」「暗い」というイメージ、「次々に生み出す、殖やす」というイメージを表す記号となる。「屮」は艸(くさ)の半分だが、これも草や植物と関わる限定符号になる。したがって「每」は植物が次々に殖える状況を暗示させる。『春秋左氏伝』に「原田每每たり」(野や田に植物が繁殖する)という文章がある。これが最初の每の使い方だが、「次々に殖える」というイメージから、物事が次々に生じることを示す用法に転じた。これが毎日・毎回などの毎である。
さて草は暗い地下から明るい地上に生え出るから、「每」は「母」と同様、「暗い」というイメージを表すことができる。晦は日光が差さず暗いという意味と、月の末(みそか)という意味がある。同様に「暗い」のイメージから、失敗を思い出して暗い気持になることを悔というのである。