「楽」
正字(旧字体)は「樂」である。

白川静『常用字解』
「象形。柄のある手鈴の形。白の部分が鈴、その左右の幺は糸飾り。もと舞楽のときにこれを振って神をたのしませるのに使用した。また病気のとき、シャーマンがこれを振って病魔を祓ったので、病気を治すことを[疒+樂](=療)という。“おんがく” の意味のときにはガク、“たのしむ”の意味のときにはラク、“このむ”の意味のときにはゴウの音でよむ」

[考察]
字形から意味を導くのが白川漢字学説の方法である。樂は手鈴で、シャーマンが鈴を振って神を楽しませるので、音楽と「たのしむ」の意味が出たという。手鈴は楽器のようなものだからこれを鳴らすことから音楽の意味が出たというのであろうか。鈴を振って神を楽しませる場面が想像しにくい。神を楽しませるとはどういうことか。
古典では樂は次の用例がある。
①原文:籥舞笙鼓 樂既和奏
 訓読:籥舞ヤクブ笙鼓 楽既に和らぎ奏す
 翻訳:文舞の舞に笛太鼓 音楽はやんわりと鳴り響く――『詩経』大雅・賓之初筵

②原文:窈窕淑女 鍾鼓樂之
 訓読: 窈窕たる淑女 鍾鼓もて楽しまん
 翻訳:はるかゆかしい乙女御と 鐘と太鼓で楽しみたい――『詩経』周南・関雎

①は音楽の意味、②はたのしむ意味で使われている。古典漢語で①の意味の語をngɔk(呉音・漢音でガク)といい、②の場合をlɔk(呉音・漢音でラク)という。これら二つとも樂という同一の図形で表記された。①と②は音声、意味とも関係があるので、一つの図形的表記にしたと考えられる。音声は上古ではŋl~という複声母があり、ŋ(ng) ~とl~に分化したと考えられる。各のグループにも各・格・客の系列と路・略・絡の系列がある。これもkl~という複声母が分化したとされている。
問題は意味である。なぜ音楽を意味する語が樂と表記されたのか、またなぜ「たのしむ」の意味の語も樂とされたのか。音楽から「たのしむ」へ意味が転じたのか。
上記の①の用例が最初の意味と考えられる。樂の字源については諸説紛々で定説はないが、水上静夫が「樂は櫟の原字である」と唱えた説が妥当であろう。樂は「幺+白+幺+木」と解剖できる。幺は糸の上部に含まれ、繭の形。クヌギにはヤママユガ(山繭蛾)が繭を作る。白はドングリの形。これらは丸い粒状の物体である。樂はクヌギの特徴から発想された図形で、クヌギという実体ではなく、その形態的特徴に重点を置く図形である。すなわち「丸く小さい粒」というイメージを表現するために樂が造形された。
音楽の意味は楽器から連想するのが簡単だが、音声面から視覚化しようとするのが古人の発想である。原始的な土製や石製の楽器はボコボコという音である。このような音のリズムは点々とつながるイメージである。これを粒状のものに見立てて視覚化する。かくて「丸くて小さな粒」のイメージをもつ樂が考案された。
音楽の意味から「たのしむ」の意味への転化は漢語独得の転義であろう。